「因果」とは原因と結果のことであり、原因があれば必ず結果があり、結果があれば必ず原因があるというのが、因果の理です。

そして古今東西のあらゆる宗教・哲学・思想・科学にいたるまですべてが、この因果ということを基盤に成り立っていると言っても過言ではありません。しかしながら、仏教以外においては、その因果が現世という限られた時間の中のものであったり、限られた物質に当てられて論じられるもので、完全なものではありませんでした。

一、外道の因果

釈尊が出現された頃のインドは、思想上の大きな変動期に当たっており、因果に関する考察にもいろいろと種々雑多な説が立てられていました。

経典ではそれを六師(ろくし)外道(げどう)(六人の代表的な仏教以外の思想家)とか、(さん)(じゅう)(だい)外道(げどう)(三十人の異説をなす者)とか、六十二見(六十二種類の誤った見解)とか種々に整理し伝えており、大聖人の『開目抄』には「九十五種」と示されています。

しかし、これらの思想は、(おおむ)ね次の三つに分類できます。

宿(しゅく)()(いん)(せつ)宿(しゅく)(めい)(ろん)
()(ざい)(てん)(そう)(ぞう)(いん)(せつ)(しん)()(ろん)
()(いん)()(えん)(せつ)(ぐう)(ぜん)(ろん)

①の宿作因説は、判りやすく言えば宿命論・運命論というもので、自分自身を含む一切のものは過去世からの因が元になって出来ており、現在も未来もすべて宿命によって決まるとされます。これは当時のカースト(四姓(しせい))制度の状況下にあって、「ある人はバラモン(婆羅門(ばらもん)司祭(しさい)(しゃ))として生まれ、ある人はクシャトリア(王侯(おうこう))、ヴァイシャ(商工(しょうこう)(みん))として生まれる、なぜ自分だけがシュードラ(奴隷(どれい))なのか」という、どうにもできない悩みに対して、説得力のある答えとして出されたものなのでしょう。

そしてこの宿命論が形を変えて、そこに神の意志というものを見出だすと、②の神意論・自在天創造因説になるわけです。つまり一切万物すべてが絶対的な最高神・自在天によって創造されるというもので、自分自身がどのような身分に生まれようが、それはすべて神の御意(みこころ)、神のなせるわざというものであります。

逆にこれらとは全く意を異にするものが、③の無因無縁説(偶然論)です。この考えは、因果律を認めず、現在についても未来についても人間の()り方に原因結果の法則はないとするものです。

しかしこれらの考えは、三つ共に人間の主体的な因行を否定するものです。つまり、①はすべて宿命として(あきら)めさせ、実生活上の向上・精進の心を失くさせます。

また、②についても、すべて神の御意で決まるのであれば、いかに人間が努力しても意味のないことになります。悪行をなしても善行を積んでもすべて神によるとするならば、これは既に因果の理法を否定していることになります。当然、③の偶然論は全く人間の努力の効果を認めないもので、現在の無信仰者の考えに似ています。

よって、これらの考えは、因果(いんが)応報(おうほう)の道理に基づく釈尊からは、危険な思想・邪教として排(はい)斥(せき)されることになったのです。

釈尊から否定されたこれら六師外道等の教えは、それぞれバラモン教を踏襲(とうしゅう)するもの、またそれに対抗するものでありましたが、すべてバラモン教の聖典リグ・ヴェーダにその影響を受けていました。

リグ・ヴェーダには、カピラ(迦毘羅(かぴら))・ウルーカ(漚楼僧佉(うるそぎゃ))・リシャバ(勒娑婆(ろくしゃば))の三仙の説く因果があります。

大聖人様は、これを『開目抄』に、

迦毘羅(かびら)漚楼僧佉(うるそぎゃ)勒娑婆(ろくしゃば)、此の三人をば三仙となづく。(中略)其の所説の法門の極理は、或は因中有果(うか)、或は因中無果(むか)、或は因中亦有果(やくうか)亦無果(やくむか)等云云」(御書 五二五頁)

と紹介され、次下に六師外道と共に因果の理法を説き尽くさないものとして、破折を加えられています。

二、外道の修行

さて、これらの六師外道の実践修行は何であったかと言うと、一日に三度ガンジス河に入ったり、あるいは(かみ)を抜いたり、(いわお)に身を投げたり、あるいは断食(だんじき)し、また、身を火にあぶり五体を焼いて真理を求めようとする苦行でした。

それでは、なぜ苦行をしなければならないかと言うと、リグ・ヴェーダにその理由を求めることができますバラモンの教えでは、宇宙の根本原理であるブラフマン((ぼん))と個人の存在の根本原理であるアートマン(())の一体を説いており、ここから人間の心は本来「善」であると定義づけられているのです。しかし、元来「善」であるはずの心が、肉体と結合するとその影響を受けて心が動揺(どうよう)し、悪を考えるようになるから禅定(ぜんじょう)を修して、心を肉体の影響から離して心の本性(悟り)を得ようとするのです。また一方、人間の体は地水火風空と精神((こころ))によって構成され、肉体の影響が強い時に迷いが生じ、肉体の影響が弱い時にはそれだけ精神が浄化されるから、肉体を苦しめることによって心が肉体の束縛(そくばく)から離れることができると考えたのです。

しかしこれらの考えは、現実世界に「梵」とか「我」とか、(あらかじ)め何らかの絶対のものを設定し、これを中心に考えるところからくるものです。

仏教では、これら、因果を無視した絶対なるものを認めません。すべてのものは、因縁によって支え合い、寄り合い存在するのであり、このことを釈尊は菩提樹下で悟ったのです。

仏教では、縁起・因縁を重んじますが、一口に因果と言ってもその中には六因(ろくいん)四縁(しえん)五果(ごか)というものがあり、その意味も多岐(たき)多様(たよう)で、外道のように一様ではありません。

ここではそれら一つ一つの説明は略しますが、例えば六因の中に異熟因(いじゅくいん)というものがあります。これは三世に(わた)る生命の因縁因果の法則の一つと言えます。

大聖人様は、『開目抄』に(しん)()(かん)(ぎょう)を引いて、

「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」(同 五七一頁)

と示されています。つまり、過去世に行ったことが因となり現在に善悪の果報となって(あら)われ、また今世に行ったことが因となり未来の果を導くのです。

さらにまた、因の中にそのまま果も含まれるという「因果(いんが)倶時(ぐじ)」も倶有因(くういん)として、仏教では説かれています。

この因果の教理は、さらに法華経本門に至って、久遠の本仏の本因本果の法門に続くこととなります。

大白法 平成27年1月16日刊(第901号)より転載