◎ 四法印とは何か

私たちが日頃使っている印鑑(いんかん)は、自分と他人とを区別する「しるし」であり、自分という人間の「標章(ひょうしょう)」でもあります。

これと同じように、仏教の法理(ほうり)の中で他の宗教と明確に区別すべき(すぐ)れた特性、すなわち「真実の標識(ひようしき)」を「法印(ほういん)」と言います。

この法印として、三法印(さんぽういん)四法印(しほういん)が広く知られていますが、今回は四法印について説明しましょう。

四法印とは、
諸行(しょぎょう)無常(むじょう)である(諸行(しょぎょう)無常(むじょう)
一切(いっさい)(ぎょう)()である(一切(いっさい)行苦(ぎょうく)
諸法(しょほう)無我(むが)である(諸法(しょほう)無我(むが)
涅槃(ねはん)寂静(じゃくじょう)である(涅槃(ねはん)寂静(じゃくじょう)
四句(しく)を言います。

この中の、②一切行苦を(のぞ)いたものを三法印と言い、四法印に「一切の法は(くう)である」の一句を加えたものを五法印(ごほういん)と言います。

一、無常(むじょう)とは何か

無常という言葉は、「無情(むじょう)」と同音のためか、一般的には悲観的な意味で用いたり、(はかな)い人生を()して用いることが多いようです。しかし「諸行無常」の「諸行」とは、この世に存在するすべてのもの、一切の現象(げんしょう)をいい、「無常」とは一瞬(いっしゅん)たりとも(とど)まることなく変化するということですから、ものごとが向上し発展することも無常の(すがた)であると言えるのです。

涅槃経(ねはんぎょう)には、雪山(せっせん)童子(どうじ)の話が説かれていますが、修行中の雪山童子が命を捨てて求め聞こうとした教えが「無常偈(むじょうげ)」と言われる経文です。それは、
「諸行無常 是生(ぜしょう)滅法(めっぽう) 生滅(しょうめつ)滅已(めっち) 寂滅(じゃくめつ)為楽(いらく)(すべてのものが変化している、これが生滅(しょうめつ)の法である。生滅を共に滅するところが寂滅(じゃくめつ)であり、これこそ真実の(らく)なのである)」
と言うものです。ここには、四法印のうち「諸行無常」と「涅槃寂静」の法理が示されています。

日本の「いろは歌」も、この無常を(うた)ったものです。
(いろ)(にお)へど()りぬるを()()(だれ)(つね)ならむ有為(うい)奥山(おく)今日(けふ)()えて(あさ)(ゆめ)()()ひもせず」
つまり、すべての現象は一瞬の停止もなく生滅し変化することを意味しています。

二、一切(いっさい)行苦(ぎょうく)とは何か

仏教では、一切の現象は無常であるが故に苦であると説いています。

この苦について、苦苦(くく)壊苦(えく)行苦(ぎょうく)の三苦があります。

苦苦とは、肉体的な感覚の苦を言います。

壊苦とは、事物が(おとろ)えたり、(ほろ)びたりすることによって感じる苦しみであり、貧困(ひんこん)失望(しつぼう)老衰(ろうすい)などの精神的な苦しみを言います。

行苦とは、四法印の一つである一切行苦を言い、一切の現象(諸法・諸行)は無常なるが故に苦であるということです。

仏教で苦という現実相を強調するのは、人生を安易(あんい)に考えることなく、現実を直視することを教え、より高い理想と真の解脱(げだつ)を求めることを教えるためです。

三、無我(むが)とは何か

「諸法無我」とは、簡単に言えば、一切の存在は無常の法の故に固有の実体的な本性はないということです。

この世に存在する現象は、すべて常に変化しているのであり、人間も五陰(ごおん)(しき)(じゅ)(そう)(ぎょう)(しき))が仮に和合したものに過ぎないのですから、固定した自性(じしょう)()というものは存在しないのです。

この考えは、大乗仏教の「空」の思想と同じものと言えます。この諸法無我の教えは、私たちにとって、本来執着(しゅうちゃく)すべき何物もなく、自と他との区別によって愛憎(あいぞう)の心にとらわれることを(いまし)めているのです。

四、涅槃(ねはん)寂静(じゃくじょう)とは何か

衆生は現実の苦を感ずることによって、同時に苦のない、救いという理想を意識するようになります。

仏教では、現実世界の理想として涅槃寂静が説かれています。

涅槃とは、貪欲(どんよく)(むさぼり)・瞋恚(しんに)(いかり)・愚癡(ぐち)(おろか)などの一切の煩悩(ぼんのう)(めっ)()くしたところにあり、涅槃は「吹き消すこと」を意味した言葉です。つまり、煩悩の火を吹き消すことを涅槃と言います。

この涅槃こそ寂静すなわち寂然(じゃくねん)として波一つ立たない静かな境地であり、衆生はこの寂静の境地に至ったとき、初めて我が心に真如(しんにょ)の月を(うつ)し出すことができると説いているのです。

諸法(しょほう)実相(じっそう)一実(いちじつ)相印(そういん)

以上の三法印・四法印は主として小乗仏教に説かれたものですが、大乗仏教とりわけ法華経では、法印としては「諸法実相」の一法印のみであると説いています。この説は天台(てんだい)大師(だいし)の『法華(ほっけ)玄義(げんぎ)』に示されています。

すなわち、法華経の『方便品』には十如是(じゅうにょうぜ)をもって諸法(しょほう)実相(じっそう)を説明し、仏の智慧(ちえ)は現実の相の真理に体達(たいだつ)し、一切のものは仏性を(そな)え、真理の当体であると説きました。この諸法実相によって一念三千の法理が確立されましたが、これはまた、先の四法印を法華経の立場から諸法実相の教理を包摂(ほうせつ)したものと言えます。

大聖人様は『御義(おんぎ)口伝(くでん)』に、
「法華の心を信ずるは種なり。諸法実相の内証に入れば仏果を成ずるなり」(御書 一七四一頁)
と説かれ、諸法実相の悟りこそ仏の究極であり、その実証を顕わされた一念三千の当体こそ末法流布の大法たる南無妙法蓮華経の大御本尊であると教示されたのです。

大白法 平成27年2月16日刊(第903号)より転載