人生を幸せに生きていくために(延寿寺は高知県南国市に所在する日蓮正宗の寺院です。このホームページは法華講 延寿寺支部が管理・運営しています)

よくある質問

信仰と名のつくものはなんであろうときらいだ

私たちは、日常さまざまな判断をしながら生きています。善悪を考えて決断しなければならないときもありますし、損か得かを考えて行動したり、他人の評価を考慮して行動する場合もあります。
幼児の頃は誰でも、善悪や他人の評価などにとらわれず、好きかきらいかという自分本位の感情で判断し、笑ったり泣いたりします。しかしその幼児も成長し、責任ある社会人になると、好き嫌いの感情による判断だけでなく、理性による判断、つまり物事の道理や善悪・利害などを考えて行動するようになります。人間誰しも好ききらいの感情は生まれながらに持っており、どんな人でも好きになれない食物や飲物は必ずあるでしょうし、一般に”医者嫌い”を自称する人も多いようです。しかし、医者がきらいだといっても、健康を損ねたり生命にかかわるケガをしたときは、身体を守るために医者にかからなければなりません。
私たちの周囲には、好ききらいで判断してよいことと、その反対に、さきほどの医者ぎらいのたとえのように、理性で正邪・善悪・得失・用否などを決定しなければならないときがあるわけです。これをとり違えて用いたり、すべて好ききらいの感情で判断することは、きわめて幼稚な行動であり、危険なことでもあります。
もし、信仰が趣味や道楽あるいは一種の友好活動にすぎないものならば、好きかきらいかで判断し、きらいな人は近づかなければよいわけです。しかし、正しい宗教とは、苦悩に直面している人に対してはもちろんのこと、それ以外の、特別の悩みがないという人に対しても、正しい生命観・人生観に立脚した真実の幸福を獲得する道を説いています。この正しい宗教を信仰することによって、私たちは個々の生命力をより生き生きと蘇生させ、人生を力強く充実したものに変えることができるのです。
人生を木に譬えるならば、正しい信仰は根幹に当たるといえるでしょう。なぜなら正しい信仰が、人生の根源の力になるからです。ですから、信仰を単に好ききらいで決めることは、自分の人生の根本を感情で決定することであり、賢明な方法ではありません。また私たちの人生は、いつ、どこで幕を閉じるかわかりません。また、自分の真実の幸福は、家族や周囲の人々へ、そして社会の幸せにも通じていくのです。今日一日を正しい信仰によって生活することは、あたかも羅針盤を備えた船のように、幸福という目標に向かって正しく前進することになるのです。どうか好ききらいにとらわれず、真実の仏法に耳を傾けて信仰が必要なことを知ってください。
素直な心で仏の教えに触れるとき、あなたは人生でもっとも大切な宝を、今まで忘れていたことを痛感するでしょう。

信仰は理性をマヒさせるアヘンのようなものではないか

「宗教はアヘンだ」と言ったのは、かの有名なマルクスです。彼は、当時の退廃的なキリスト教の姿を見て、宗教は人間にとって現実的な矛盾の解決になるものではなく、むしろ現実から目をそむけさせて、仮りに一時的な心の安らぎを与えているにすぎないと指摘したのです。
宗教とは、本来一個の人間がいかに生きるかというところに、その目的があるのですが、中世のキリスト教を初めとする過去の宗教の歴史では、むしろ、宗教のために個人が翻弄されてきたというのが事実です。宗教のために人が翻弄された時ほど、悲惨なことはありません。そこではすべての人間性と理性は神の名のもとに否定され、人間は神の奴隷でしかなかったのです。マルクスが「宗教はアヘンだ」と言ったのは、このような暗い、人間性を無視した宗教を指したものでした。キリスト教に限らず教条主義的な宗教は、あらゆることを神の言葉に服従することだけを強調して、善良な信徒の理性をマヒさせるものなのです。
しかし、すべての宗教が同様であるということではありません。正しい法義と正しい本尊を説き明しひとりひとりの人間の生命力を蘇生させ力強く人生を開拓し、真の幸せな境涯を築くという、宗教本来の目的を説き続けてきた唯一の宗教があります。それが日蓮大聖人の仏法です。大聖人は、
「御みやづかいを法華経とをぼしめせ。一切世間の治生産業(ちせいさんごう)は皆実相と相違背せず」(檀越某御返事・新編1220頁)
と説かれています。すなわち、仏法とは世間法とかけ離れたものではなく、治生産業に励み、よき人材となって成長していくことを目的としているのです。日蓮大聖人の仏法を持つ者は、この精神を根本として、社会の中にあっても積極的に行動し、あらゆる分野で活躍しています。
人生は、幸・不幸・悲・喜こもごもです。しかし、大聖人の仏法を信心する者は、たとえ逆境の中にあっても、信仰の功徳によって、苦難にも勇敢に立ち向かい、諸難を乗り越えていけるのです。真実の宗教は、人間の意識を消極的にするものではなく、むしろ、信心の力によって不幸をも克服する強い生命力を発揮させ、積極的に生きる力を育むものなのです。弱い人間が信仰に逃避して、つかの間の安らぎを求める、というようなものではけっしてありません。
アヘンのごとき邪教にまどわされることなく、求道の心を開き、勇気を持って真実の正法に帰依し、その良薬を口に含み、正法を味わうときにこそ、真の人生のはつらとした生き甲斐を見い出すことができるのです。

信仰はもうこりごりだ

現在、日本には500の宗教団体があるといわれています。その中には、古い歴史と伝統をもつ宗教から、最近生まれた宗教まで、多種多様です。そして、歴史を誇る宗教は、その伝統と古めかしい教義を説き、また各種の新興宗教は、それぞれの人の耳目を惑わすような、小さな通力や利益を説いて、一人でも多くの人を引きつけようと懸命です。
「信仰はもうこりごりだ」という人は、これらの宗教に一度ならず足を踏み入れ、そのつど、願いも叶わずむなしい思いを味わった人であろうと思います。宗教は人の心と生活の全体に影響を持つものですから、一歩まちがえて邪教にのめり込んだら、どんなに立派な志を立てても、その結果は逆になってしまうのです。しかも、邪な宗教に一度落ち込んだら、なかなかはい上がることができません。なによりも恐ろしいことは、悲惨なその姿に、本人自身がいまだに何も気付かず、不幸だとも思っていないことです。このように、個人の理性をマヒさせるのが、邪教のもっとも恐ろしいところなのです。
今も非常に多くの人々が、その麻薬のような利益に執着して、抜けられないでいるのですが、何とかしてそこから抜け出た人が、二度と宗教には足を踏み入れたくないと思うのは、当然でしょう。しかし、だからといって、真実の宗教も邪な宗教も、十把(じっぱ)一(ひと)からげにして、すべてを否定することは、あまりにも軽率に過ぎます。それは、あたかも一部の警察官の不祥事をもってすべての警察官がそうだと決めつけたり、何人かの悪徳医者がいたからといって、それですべての医者を悪徳呼ばわりし、医者を拒否する愚に似ています。
日蓮大聖人は、
「人路をつくる、路に迷ふ者あり、作る者の罪となるべしや」(撰時抄・新編835頁)
と仰せられています。過去にあなたが邪な宗教にとらわれ、欺かれてきた原因は、あなたに正法正義を選択する力がなかったからなのです。ですから邪教に惑わされた自らの不明を顧みて、真実の宗教と邪教とを識別する方途を知る必要があります。
大聖人は、宗教の正邪浅深を知る物差として、
「法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず。」(唱法華題目抄・新編233頁)
と教えられています。つまり、仏法の正邪は、耳目を惑わすような通力によって決めてはならない。あくまでも、人々を救済できる道理と働きと力を教え授ける法門によって決めなさい、と説かれています。
さらに大聖人は、
「日蓮仏法をこヽろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず。」(三三藏祈雨事・新編874頁)
と説かれています。
すなわち、正しい仏法を判定するためには、正しい救済の道理と、明確な仏の文証と、実際の功徳の現証に裏付けられていなければならないと説かれています。この三証(文証・理証・現証)によって裏付けられ、いかなる時代の人々の理性と常識にも充分対応し、真実に人を救う力のある宗教が、日蓮正宗として現実に存在するのですから、「もうこりごりだ」などと言って逃げていては、ほんとうの幸せをつかむことはできません。

宗教によらなくても、自分で幸福だと思えばよいのではないか

一般に、どのような境遇にあっても、人間の幸不幸は所詮その人の心の持ち方・考え方によって決定されるのだから、宗教に頼るよりも、心に“自分は幸せだ”と思うことが大切である、という考え方があります。このような考え方は、一見もっとものようですが、現実的には人間本来の「心」を知らない理想論であり、これを実行するとなると危険がともないます。なぜかといいますと、私たちの心は時にふれ、折にふれて、ある時は喜び、ある時は悲しみ、怒り、そして安らぐというようにさまざまに変化します。その変化は心だけでなく、顔つきや態度に現れます。なぜ私たちの心がさまざまに変化するのかといいますと、周囲の環境世界(これを縁といいます)に触れることによって、私たちの生命(身心両面にわたる人間全体の働き)に、本来潜在的に具えている十界三千といわれるさまざまな働きの一部分が瞬間瞬間に反応するからなのです。
私たちの内なる心と外界を結ぶ窓口が眼耳鼻舌身の五根です。外界の色彩や物質は眼根を通して心に伝えられます。音は耳根により、香りは鼻、味は舌、冷暖・柔剛などは身体の皮膚感覚によって心に伝達されます。これらの情報を受けた心(意根)は、これを識別して好悪・喜怒などの反応を生ずるわけです。人間は自分の心に適ったり満足した時に幸福を感じますし、反対にきらいなことが続いたり、不快なことが直接我が身にふりかかった時に不幸を感じます。これは人間として本能的なものであり、きわめて当然のことです。それを「どのような場合でも幸福を感じ続けよ」と心に強制することは、あたかも身に危険を感じても安全だと思えということと同じであり、黒いものを見て白いと思えということと同じです。このようなことは現実に、正常な人ができるわけがありません。「心」は目に見えませんが、肉体と同様に疲労や倦怠もあれば許容の限界もあるのです。もし身体を鍛えていない病人に、いきなり何十キロもある荷物を背負わせたとしたらどうでしょう。おそらく立つことはおろか、大けがをしてしまうでしょう。同じように心の鍛錬・修行を積んでいない人に対して、「どのような境遇にあっても、いかなる縁に接しても、自分は幸福だと思わなければいけない」と強要することは、極度の心理的重圧を加えることになり、ついには二重人格や精神分裂症などを引き起こすことにもなりかねません。
このような、人間生命の本質を知らない誤った幸福感は、一個人の主義・主張にとどまらず宗教の教義の中にも見られます。その一例を挙げますと、“心によって病気が起きるのだから、治ったと思えば病気が治る”と説く「生長の家」や、“汝の敵を愛せよ”などと矛盾した美辞麗句を並べる「キリスト教」があります。これらは、宗教本来の利益によって現実に救済する力もなく、衆生を加護する力もなく、単に衆生に対して”思いこみ”を押しつけているだけの宗教といわざるをえません。
これに対して真実の宗教とは、宇宙法界の現証と真理のすべてを達観した本仏によって説き示された教えであり、広大な功徳力を具えた本尊を信じ、修行を積むことによって、清浄にして不動の心(法身)を発揮し、深い智恵と慈愛にみちた人間性(般若)を開発し、人生を自由自在に遊楽(解脱)させる働きがあるのです。
このことを日蓮大聖人は、
「法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じ云々」(当体義抄・新編694頁)
と仰せられています。真実の幸福とは、観念的な“思いこみ”や“ひとりよがり”ではなく、正しい本尊によって自己の内面から健全な生命を涌現させ、修行によって深い智恵と苦難を克服する心を養い、仏力・法力によって守護される安心立命の境界をいうのです。
何物にもくずされない絶対的幸福、それは正しい宗教によってはじめて得られることをよく知るべきです。

信仰は意志の弱い人間のすることだ

意志の強い人とは、ひとつの目的に向かって、種々の障害があろうとも、それを乗り越えて行く努力ができる人のことをいい、目的に向かうことは同じでも、途中で挫折してしまったり、またひとつのことに長続きしない、移り気な人が意志の弱い人といえると思います。
しかし、目的の違いや環境の違いによって難易の度合いもありますから、いちがいに、あの人は意志の強い人、弱い人と決めつけるわけにはいきません。また、意志が強いと思っている人であっても、人の心というものは常に変化してゆくものです。周囲の環境の変化によって変わってゆくのが、人間の心なのです。したがって、その変わりやすい自分の心を中心として、その心の変化のままに思い思いに行動してゆくならば、それは、ちょうど羅針盤のない船のように、どこへ行きつくのか見当もつきません。常に右往左往していなければなりません。
日蓮大聖人は、
「心の師とはなるとも心を師とせざれ」(曽谷入道殿御返事・新編794頁)
と、自分の心をすべての依りどころの基盤とするものではなく、正しい教法を心の師として、弱い自分に打ち勝つべきであると教えています。なかには、何事に対しても消極的で、常に何かに頼っていこうとする人がたまたま宗教に救いを求める姿をとらえて、「信仰は意志の弱い人間のすることだ」という人もいます。
しかし、たとえ意志が弱いといわれるような人であっても、真実の宗教である大聖人の教えによって種々の困難を克服していくならば、これほどすばらしい人間改革の道はありません。事実、意志の弱さや、病魔や、さまざまな宿業による困難を、妙法の信仰によって乗りこえた体験を持った人たちが、現在社会のあらゆる分野で活躍し、大聖人の仏法によって、大きくその境涯を開いています。
このような現実社会の中で人材として蘇生していく姿こそ偉大な仏法の力を証明するものであり、信仰は意志の弱い人間がすることだときめつけるのは、とんでもない誤りです。

信仰を求めるのは病人や貧乏人ばかりではないか

仏法は、人間が本質的に直面しなければならない苦悩を解決するために説き明かされたものですから、苦しみ悩む人が救いを求めて信仰に入ることは当然のことです。信仰を求める動機は、主として直接的に日常生活の支障となる病気や経済苦が挙げられますが、そのほかに最近では子供の教育問題や職場の人間関係、家庭不和、将来への不安なども多くなっています。人間は誰でも、苦しみや困難にあったとき、はじめてその原因を考え、よりよい解決方法と再び失敗しない方法について、思いめぐらすのではないでしょうか。
事実、自分はこれでよしと思って進んできたが、その結果が思わしくなく、さまざまな問題が起きて身動きができなくなって、はじめて我が身をふり返り、自己の信念や努力だけでなく、人生の土台として正しい信仰が必要であったことに気付いたという人も多いのです。
また、日蓮大聖人は、「病によりて道心はおこり候か。」(妙心尼御前御返事・新編900頁)と仰せられ、病苦が信仰心を起す原因になるとも説かれています。
しかし、入信の動機がいずれにせよ、それによって正しい教えにめぐり会い、正境(正しい本尊)に縁することに重大な意義があるのです。妙楽大師は、「たとい発心真実ならざる者も正境に縁すれば功徳なお多し。」(聖典833頁)
と、発心の動機がどうであっても、正境に縁することが大きな功徳になると説いています。
入信する時の一面だけを見て、やれ病人だ貧乏人ばかりだ、と非難することは、仏法の功徳力を知らない者の愚かな行為といわざるをえません。大切なことは、いかに多くの人が正しい仏法によって病苦や経済苦を克服し、力強い人生を築いているかという現実を知ることであり、いかなる境遇の人も必ず幸せになっていく日蓮大聖人の仏法が存在していることを知るべきです。
大聖人は、
「あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき。」(経王殿御返事・新編685頁)
と仰せられています。
さらに法華経には、
「無上の宝聚(ほうじゅ)を求めざるに自ら得たり」(信解品第四・開結199頁)
と説かれています。これは無上の宝である成仏の境界は自ら意識して求めずとも、正境に縁することによって自然に得られるというのです。また伝教大師(でんぎょうだいし)は、正法を信じ行ずる道心こそ真実の国の宝であると讃えています。この道心の動機が病気であっても、経済苦であっても、なんら恥ずべきことではありません。むしろ自他ともに幸福を得るための大切な入り口ともなるのです。

信仰は本人の自由意志によるべきで、他人に強要することはよくない

たしかに信仰は他人に強要すべきものではありません。また、他人に強要されてできるものでもありません。日蓮正宗でいうところの折伏とは、人に信仰を強要することではなく、日蓮大聖人の教えの尊さと、自ら体得した信心の感動を、一人でも多くの人に語り伝え、喜びを分ち与えたいと思う慈悲心の発露なのです。
たとえば、病気の子供が苦いからといって薬を飲まない時、親はそのままにしておくでしょうか。無理をしてでもその子に薬を飲ませるのではないでしょうか。折伏とは、まさにこれと同じです。なぜなら、日蓮大聖人の仏法は、大良薬に譬えられ、人間が生きてゆくための真理が説かれているからです。
真実の仏法を知らない人は人生の真の目的を知ることもなく、正法の功徳を受けることもできず、無味乾燥の一生を虚しく送ることになります。そのようなことのないよう、真実の仏法を一人でも多くの人に伝えたいと思う慈悲の心が、折伏という行動として現れてくるのです。
また、親なればこそ、我が子にやっていいことと、やってはいけないこととを厳しくしつけるように、折伏とは正邪のけじめを正しい仏の教導にしたがって諭し示すことでもあります。
ですから、折伏は人に信仰を強要することではなく、人生の真理を伝え、喜びを共に分かちあいたいという大きな慈悲行なのです。

自分は忙しくて時間がないので信仰ができない

現代はたしかに忙しい時代です。いまや国民のすべてが時間との闘いにあけくれているといっても過言ではありません。駅の売店で牛乳とパンを流し込んで会社に急ぐサラリーマンや、何秒と違わない先を急ぎ、無理な追い越しのために死亡事故を引き起こしている車社会の様相などは、まさに時間地獄とでもいいたいほどです。また、家事・育児のほかにパートで働く主婦、学校が終わるや学習塾に走る子供たち、定年後も生活のために働く老人など、あらゆる人々が働きバチのように目まぐるしく、時間に追われるように生活しているのが現実です。これは、誰もが現代社会の中でよりよい生活を求め、社会のスピードに遅れまいとする心の表れといえましょう。
しかし、どんなに忙しい人でもまったく睡眠をとらないわけではないでしょうし、食事の時間や新聞を読む時間ぐらいはあるはずです。たいていの人は「忙しい忙しい」といいながら、友だちとのおしゃべりや晩酌、テレビなどで一時間や二時間を費やしているのではないでしょうか。
これは本当に時間がないのではなく、心にゆとりがないということであり、忙しいと感ずるかどうかは、その人の身体と心の許容量の問題であるといえましょう。ですから「時間はできるものではない、時間は自ら作るものだ」という言葉も、自分自身の心にゆとりを持つことを教えているのです。
もし、身心の許容量が小さく、通常の生活で精いっぱいの人や、仕事と家庭以外には手が回らないという人がいたならば、このような人こそ仏法によって色心(肉体と精神)両面を錬磨し、力強い生命力と豊かな人間性をとり戻す必要があります。また、もし本当に寝る時間もないほど忙しい人がいるならば、その人は自分の苦労や努力がはたして正しい方向にすすんでいるのかどうかを考えるべきです。せっかく身を粉にして努力しているのに、正しい人生設計も明確な目的も持たないならば、「骨折り損のくたびれ儲け」になってしまいます。
人間としてもっとも大切な大目的を教え、人生のもっとも正しいあり方、考え方を説き示したものが、仏法です。この仏法を信じ行ずることによって、自分の生命の中に英知と力が備わってくるのです。たとえていえば、間違いのない標識と、どんな悪路や坂道でも乗りこえる車があって、はじめて目的地に到達するように、正しい教えと正しい信仰によって、人生の苦労や努力が実るのです。
ですから、忙しい人ほど人生の根本の指針として正しい信仰が必要であることを知るべきです。

信仰は老人がするものではないのか

「信仰は年寄りがしていればよい」という意見には、信仰に対する無理解と老人に対する偏見が潜んでいるように思われます。正しい信仰が人生にもたらす作用はさまざまなものがあります。その中の主なものを挙げてみますと、
①正しい教えを信ずることによって、考え方や人生観が広く正しいものになる。
②日々の信仰修行によって身心ともに健全な人間として鍛錬される。
③精進心すなわちこつこつとたゆまぬ努力を積み重ねる心が培われる。
④敬虔な心・感謝の心・思いやりの心が養われる。
⑤日常生活が信仰の功徳力によって仏天に加護される。
などがあります。
このように人生に大きな意義をもつ信仰が、若い人と無縁であるというのはまったく的はずれな暴論というべきです。むしろ、「鉄は熱いうちに鍛えよ」という言葉どおりに、人生の基礎となり土台となる若い時こそ、正しい宗教を信仰し修練を積むべきなのです。
ビルを建てる場合でも地中深く打ち込まれた盤石な基礎があれば、その上に立派な高層建築を建てても微動だもしません。これと同じように、若い時に目先の欲得や表面的な楽しみに流されることなく、信仰を根本としてしっかりした人生観と人間性を養うことが将来の大きな力になるのです。
また本人がいかにまじめな努力家でも、いつ不慮の災難にまき込まれるかわかりません。一瞬の事故によって一生を台なしにするような事件がいたるところで起きていることを考えると、やはり仏天の大きな力によって日々守られることも、若い人が充実した生活を築くための大切な要件といえましょう。
たしかに低級思想や迷信に走る宗教、あるいは形骸化した既成宗教の姿に対して、若い人だけでなくすべての人々が失望し、むしろそれらを忌避しているというのが現実です。しかし真実の生きた宗教は、老若男女、人種などの差別なく、すべての人に生きる力を与え、何ものにも崩れない安穏にして自由な境涯を確立させるところに、その目的があるのです。また、道を志すことに遅いということはありません。青年・壮年・熟年を問わず正法に帰依することは幸福の絶対条件ですが、健全な苗木が大木・名木に成長していくように、伸びゆく青年時代に信仰に励むならば、それだけ人生の大きな力となり、強固な礎となるのです。
現在日蓮正宗には、何万名もの青年が自己の確立と社会平和のために情熱をもって信心修行に励んでいます。

信仰をしていても悪い人がいるのではないか

信仰していない人は、よく「信仰をしていても、こんなに悪い人がいるから信仰する気にならない」と言います。「悪い人」といっても、悪い考えに染まった人、悪い癖を持った人、自分で気付かずに悪業を犯す人などさまざまです。
釈尊は、現代の世相を「五濁悪世」と予言しました。五濁とは
①劫濁(社会・環境に悪い現象が起きる)
②煩悩濁(瞋りや貪りなどの悪心にとらわれた本能の迷い)
③衆生濁(人間そのものの濁り)
④見濁(思想や考えの乱れ)
⑤命濁(みょうじょく)(生命自体の濁り、人命軽視など)
をいいます。
たしかに現代社会は科学技術の発展とは逆に、人間性は歪曲され、貧困になっていますし、社会全体の混迷と汚染はますます深刻になっています。まさしく釈尊の予言どおりの世相になっています。
社会も時代も、そして個々の人間まで汚染されつつある現代は、悪で充満しているといっても過言ではありません。そのような中で、健全な人生を築くために発心して信仰の道に入っても、始めのうちは過去からの宿習や因縁によって、また縁にふれて悪心を起こしたり、他人に迷惑をかける人もいるかもしれません。また世間で罪を犯した人が、最後の更正のよりどころとして信仰を持ち、努力することも宗教の世界なればこそ当然であります。
このような場合でも、正しい宗教によって信仰を実践していくうちに、悪い性を断ち切り、煩悩を浄化し、六根清浄になっていくのです。
日蓮大聖人は信心の功徳について、
「功徳とは六根清浄(ろっこんしょうじょう)の果報なり。所詮今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり」(御義口伝・新編頁1775頁)
と仰せです、すなわち正しい教えである南無妙法蓮華経を信じ唱える者は、必ず六根〔眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)〕のすべてが清浄な働きになると教えているのです。
信仰の正当性を知るために大切なことは、それを信ずる人の姿を見て判断するのではなく、信仰の対象である本尊や教義の正邪をもってその価値を決しなければならないのです。釈尊は、「法に依りて人に依らざれ、義に依りて語に依らざれ」〔涅槃経(ねはんぎょう)〕と説いています。
信仰をしている人を部分的な表面や風評をもって批判することは誰にでもできるでしょう。しかし批判者にはそれ以上に得るものはなにもないのです。むしろ、正法の信者を誹謗するという大きな罪を作っているかもしれません。一方、正しい信仰を根本として、過去の悪業や弱い自分と闘いながら仏道に精進している人は、当初は恥しい思いをするかもしれませんが、将来必ず目標に到達し、真実の幸福境涯を築き、周囲の信頼と尊敬を集めることができるのです。
もし万が一にも、正しい信仰を持ちながら平気で悪事をなすならば、その人は仏法に疵(きず)をつける罪によって仏罰を受けるでしょう。しかしそれもまた、その人を善導するための仏の慈悲のあらわれであり、いかなる人も必ず正しい人生を歩むようになるのです。

宗教は狂信、盲信のすすめではないか

ここでいう「狂信」とは、理性を失い我を忘れて狂ったように信ずることであり、「盲信」とは、ひとつの信仰に埋没し、わけもわからずむやみに信ずることです。
この狂信・盲信について三つの点から考えてみましょう。
まずはじめに数多い宗教、信仰のなかには明らかに教義として狂信・盲信をすすめているものがあります。たとえば霊媒信仰や修験道、あるいは踊る宗教などは忘我の境地に至ることが救いであり、理想であると説いています。また、キリスト教やイスラム教のなかには自宗に執着するあまり、教義の正邪ではなく、暴力やテロに訴える場合もあり、これも狂信のひとつといえましょう。
さらに念仏宗などは「他の教典はすべて捨てよ、閉じよ、閣(さしお)け、抛(なげう)て」と、他の教典を読むことを禁じ、禅宗なども不立文字(ふりゅうもんじ)・只管打坐(しかんたざ)と称して文字による教義理解を否定し、他宗の善悪を知ることさえ、嫌います。
また、密教やキリスト教のなかには、社会との交渉を断って、山奥や閉鎖集団の中で生きることを至上の目的とするものもあります。このように、他の宗派や社会と隔絶することを説く宗教を信ずるならば、他の宗教と比較することもできず、独善的な信仰となります。
日蓮大聖人は、
「迷妄の法に著するが故に本心を失ふなり」(御講聞書・新編1858頁)
と説かれ、誤った教えによって本心たる理性が失われ、狂信になると教えています。また、
「若し先づ国土を安んじて現当を祈らんと欲せば、速やかに情慮を廻らし怱いで対治を加へよ」(立正安国論・新編248頁)
と仰せられ、社会の平和を実現させるためには、正法と邪法とをよくよく糾明して対応救治しなければならないと説かれています。
第二には、信仰修行の上での狂信・盲信についていえば、日蓮正宗の信仰修行は理性を失う狂信でもなく、わけもなく信ずる盲信でもありません。
大聖人は、
「行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず」(諸法実相抄・新編688頁)
と、修行とともに教学、すなわち教義の研鑽が大切であると説かれています。また、
「酔とは不信なり、覚とは信なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る時無明の酒醒めたり」(御義口伝・1747頁)
と仰せられ、真実の正法を信じ唱題する時、無明という迷いの霧が晴れて真理に目覚めるのであると教示されています。
第三には、現実の例証をもっていえば、大聖人は、
「仏法を習ふ身には、必ず四恩を報ずべきに候か。」(四恩抄・新編267頁)
と、信仰者は人間の道として父母・衆生・国土、そして三宝の四つの大恩を常に感じ、報いるように教えられています。
又、職場での心得として、
「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」(檀越某御返事・新編1220頁)
と諭されています。このように常識をもち、社会人としての勤めに励むことが信仰者の道であると教えています。
日蓮大聖人の願いとするところは、正しい仏法によって個人も社会もともに健全に発展し幸福境涯を築くことであり、日蓮正宗を信仰する者は邪法に迷う人々を目覚めさせるために正邪を説き、自らの姿をもって信仰の尊さを示しているのです。しかも正法を信ずるならば仏力・法力によって、おのずと円満な人格と福徳が備わり、社会人としても多くの人々の信頼と尊敬を受けていることはまぎれもない事実なのです。
もしあなたが、信仰者の真剣な礼拝唱題の姿をとらえて、それを狂信だ盲信だと非難するならばそれは妄断であり、誤りです。なぜならばそれはあたかも、職人が一心不乱に仕事に打ち込み、運動会で子供が一所懸命に走っているところだけをとらえて、「気違いだ」「狂っている」と、はやしたてているようなものだからです。

現在は信仰するほどの悩みはない、いまの生活で満足だ

「信仰するほどの悩みはない」という言葉は、言い換えると「悩みのない人は信仰の必要がない」ということであり、信仰を正しく理解していないようです。
仏さまが、この世に出られた目的は、仏知見すなわちいかなるものにも壊れることのない清浄で自在の境地と、深く正しい智慧を、衆生に対して開き示し、悟り入らしめるためであると法華経に説かれています。そして法華経宝塔品には、
「此の経を読み持(たも)たんは是れ真の仏子、淳善(じゅんぜん)の地に住するなり」(開結355頁)
と説かれ、正しい仏法に帰依する者は真実の仏の子であり、清浄で安穏な境地に住することができると教えています。日蓮大聖人も、
「法華経は現世安隠・後生善処の御経なり」(弥源太殿御返事・新編723頁)
と仰せられているように、安穏な境地とは現在ばかりでなく、未来にわたるものでなければなりません。楽しいはずの家族旅行が一瞬にして悲惨な事故にあったり、順調に出世コースを歩んできた人が一時の迷いから人生の破滅を招いたりすることはしばしば耳にすることです。いまが幸せだからそれでよいという人は、よほど自分だけの世界に閉じ込っているか、直面している問題や障壁を認識できない人といわざるをえません。
私たちの周囲を見ても、世界では毎年何百万人もの戦争による死傷者が出ており、私たちが戦乱の渦中に巻き込まれないという保障はどこにもありません。また、家族や親戚の悩みはまったくないのでしょうか。子供の教育問題や親または自分の老後の問題などを考えても、「今の生活で満足だ」とのんびりしているわけにはいかないと思います。
大聖人は、
「賢人は安きに居て危ふきを欲ひ、佞人は危ふきに居て安きを欲ふ」(富木殿御書・新編268頁)
と仰せられ、賢人は安穏な時でも常に危険に心を砕いているが、考えが浅くへつらうことばかり考えている人は、危険な状態になっても安逸をむさぼろうとするだけであると説かれています。
今が幸せだということは、譬えていえば平坦な舗装道路をなんの苦労もなく歩いているようなものです。しかし長い人生には険しい登り坂もあれば泥沼の道もあります。その時にはより強い体力と精神力、そして適正な智慧がなければなりません。難所にきてから「自分は平坦な道しか歩いたことがない」という人はむしろ不幸な人というべきです。どんな険難悪路に遭遇しても、それを楽しみながら悠々と乗り越えてゆく力を持つ人こそ真に幸せな人というべきでしょう。強い生命力と深く正しい智慧は、真実の仏法に帰依して信心修行を積まなければ決して開発されるものではありません。
どうか目先の世界や自己満足に閉じこもることなく、一日も早く正しい仏法を信じ、真に賢い人間となり、幸福な人生を築いて下さい。

利益や罰はその人の心の持ち方によるのであって、客観的にあるものではない

人間の幸福と不幸を、線を引いて区分することはできません。まったく同じ条件のなかにあって、ある人は自分は不幸だと思う人もいれば、別な人は自分は幸福だと思う場合もあります。ひとつの結果を利益とみるか、罰とみるかはその人の心や考え方によって決定されるといっても間違いではありません。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉がありますが、どこまで心頭を滅却(無念無想の境地)できるか、どの程度の火熱を涼しく感ずるかという限界点は個人差がありましょう。しかし普通の人で、真っ赤に焼けた鉄にふれても何も感じない人はいません。また食事をとらないで一日二日は我慢できても、十日も二十日も絶食して平常と変わらない人はいません。どんな人でも体に激痛を感ずれば心も落ち着かなくなるのは当然です。
これらの事実から見ても、現実の結果や物事の評価は人間の心によって決定されるものですが、心はまた現実の物質世界に支えられていることがわかるでしょう。これらの原理を仏法では「色心不二」といって物質や肉体(色)と精神(心)はたがいに離れることなく一体であると説いています。
この色心不二の生命に根本的な影響を与えるものが宗教です。日蓮大聖人の教えによりますと、妙法を信受する者について、
「身は是安全にして、心は是禅定ならん」(立正安国論・新編250頁)
と仰せられ、心に禅定を得るばかりでなく、身体も安穏になると説かれています。また、正法に背く者について、経文を引用して、
「人仏教を壊らば復孝子無く、六親不和にして天神も祐けず、疾疫悪鬼日に来たりて侵害し、災怪首尾し、連禍縦横(れんかじゅうおう)し、死して地獄・餓鬼・畜生に入らん。若し出でて人と為らば兵奴(ひょうぬ)の果報ならん」(立正安国論・新編249頁)
と説かれています。この文の意味は、“正法を信ぜず、信仰を壊る者は福徳が尽きて、孝養心のある子供に恵まれず、親子・兄弟・親戚が仲たがいをしていがみあう。天候不順で作物が実らず、悪病が流行し、悪い思想もはやって生活をおびやかす。奇怪な事件やわざわいが次々に起こり、死後は苦しみの地獄、飢渇の餓鬼、互いに殺し合う畜生などの世界に落ちる。その後もし人間に生まれてくるならば兵隊として戦場にかり出されたり、奴隷となって酷使されるであろう”というのです。
これらの教えは因果の道理、すなわち善因を積めば善果を得、悪因には悪果を生じるという当然の姿を記したものであり、正法を信受する者には大利益が、不信毀謗の者には厳然とした罰が、身心両面に現れることを説いているのです。
真実の幸福と安穏な境涯は、凡俗の私たちが心でどのように受けとめるか、あるいは一時的な感情でどのように考えるか、というところにあるのではなく、正しい仏法をいかに余念なく信受し、行じうるかにかかっていることを知るべきでしょう。

信仰をしなくても立派な人がいるではないか

まず「立派な人」とはどういう人を指すのでしょうか。
一般に「立派な人」という場合は、社会的に指導的地位にある人、名誉のある人、財をなした人、学識豊かな人、福祉活動や救済事業に貢献する人、社会的な悪と闘う人などが挙げられます。さらに広くいえば、名誉や地位はなくても毎日を正直にまじめに努力しながら過ごしている人々も“立派な人”といえるのではないでしょうか。こうしてみると、“立派な人”といっても一定の規準があるわけではなく、他人を評価する時に主観的見地から用いる漠然とした言葉にすぎないことがおわかりでしょう。
では信仰は立派な人間になるためにするのでしょうか。それとも立派な人間になることとは違うところに目的があるのでしょうか。
結論からいえば、正しい信仰とは、成仏という人間にとって最高究極の境涯に到達することを大目的として修行精進することであり、その仏道を修行することによって、ひとりひとりが人間性を開発し、錬磨し、身に福徳を具えていきますので、その過程の中でおのずと“立派な人間”が培われていくのです。日蓮大聖人は、
「されば持たるゝ法だに第一ならば、持つ人随って第一なるべし」(持妙法華問答抄・新編298頁)
と仰せられ、信ずる法が正しいゆえに人も立派になるのであると説かれています。ですから正しい信仰を持たずに、単に眼前の名誉や地位、あるいは財産、学歴などをもって、それで仏の御意に叶う人生になるわけではありませんし、そのような表面的な要件が備わっているからといっても真実の絶対的幸福が得られるわけではありません。
大聖人は、賢人について、
「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり。利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり」(四条金吾殿御返事・新編1117頁)
と仰せです。財産(利)や名誉(誉)、地位(称)、悦楽(楽)などによって喜んだり、落胆したりすることは世の常ですが、これらは世間の一時的な八風であって、この八風に侵されない賢人になるためには、より高い理想と教え、すなわち身心に強い信仰を体して仏道修行を志す以外にないと示唆されています。
この八風に侵されない賢人こそ“立派な人”というべきではないでしょうか。そのためには生命の奥底から浄化し活力を与える正しい仏法をもつべきなのです。大聖人は、
「地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、願はくは今度人間に生まれて諸事を閣いて三宝を供養し、後世菩提をたすからんと願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯は消えやすし」(新池御書・新編1457頁)
と戒められています。

信仰はなぜ必要なのか

一般に信仰とは、お年寄りが一種の精神修養や先祖を敬いつつ、なごやかな楽しみの場を持つために、お寺へ参詣し、時には団体旅行をすることぐらいの認識しか持ち合わせていない人が多いようです。
あるいはまた困った時に、神仏の加護を求めて参詣し、手を合わせ、願をかけ、守り札などを大事にすることが、信仰だと思っている人もあります。
しかし、正しい宗教を信仰する目的は、一人ひとりの人間の生命の救済、つまり、生・老・病・死の四苦や、経済的な苦しみや対人関係の悩みなどを含む、人のいかなる苦悩にも打ち勝つ活力を与え、すべての人々に真実の幸福を築かせ、尊い人生を全うするための生き方を教えるところにあります。
したがって、正しい宗教の持つ働きは、単なる精神修養や気安めではないのです。
正しい信仰は、何よりも人間の全生命の問題と、その生き方、人の幸・不幸にかかわる、実に重大な意義と働きと大きな価値を持っているのだということを知ってください。
数ある宗教の中にあって、一時の気安めや現実からの逃避ではなく、真に一切の人間の苦悩を喜びに変え、大難を乗り越えて、煩悩を菩提へ、生死を涅槃へ、裟婆の忍土を寂光の楽土へと転換させうる仏法こそ、日蓮大聖人の教えなのです。
では、正しい信仰に、どのような功徳がそなわるかといいますと、
①世界中の一切の人々を、真に幸せな即身成仏の境界に導くことができる。
②強盛な信仰を通して、御本尊に託する願いや希望を成就し、また、悩みや苦しみに打ち勝つ金剛心を育てることができる。
③御本尊にそなわる題目の功徳によって、父母を救い、先祖代々の人々を成仏させ、また、未来の子孫をも救済する福徳を得ることができる。
などがあり、そのほかにも正しい信仰の功徳は数多くあります。
日蓮大聖人は、妙法を信受する功徳について、
「南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福や有るべき。真実なり甚深なり、是を信受すべし」(聖愚問答抄・新編406頁)と教えられています。

神仏を礼拝することが尊いのであるから、何宗でもよいのではないか

宗教に限らず、人間にとって敬い、信ずるということは大切なことです。日常生活においても信頼する心がなかったならば、食事もできませんし、乗り物はおろか、道を歩くことも、家に住むことさえできないでしょう。
では反対になんでも無節操に信ずればよいかというと、それもいけません。道に迷ったときは道をよく知っている人に尋ねれば、間違いなく目的地に着くことができます。私たちは目的地に正しく導いてくれるものを信用したときには、所期の目的が達成されるわけですし、反対にいつわりのものや目的と違ったものを信じたときには、思い通りにならず、不満や不幸を感ずるのです。
質問のように、神仏を信ずる心が尊い、神仏を礼拝する姿が美しい、だから何宗でもよいというのは、詐欺師の言葉でもそれを信ずることが尊く、ブレーキのこわれた車でも信じて乗ることがよいということと同じです。
私たちの生命は周囲の環境に応じて、さまざまな状態やはたらきをします。ちょうど透明な水の入ったコップが周囲の物や光によって色が変化するようなものです。「朱に交われば赤くなる」という言葉も、周囲の縁によって感応する私たちの生命のはたらきを指したものでありましょう。信仰は“信ずること”であり、“礼拝すること”なのですから、単に交わるとか尊敬する状態よりさらに強い影響を受け、それによってもたらされる結果や報いは、人生に大きな影響を与えることになります。
いいかえれば、信仰における礼拝は、その対象たる本尊に衆生の生命が強く感化されるのであり、人間の生命と生活の全体に、これほど強烈に働きかけ、影響を与えるものはないのです。ですからいかに信ずることが尊いといっても、人間に悪影響を与える低劣な本尊や、誤った宗教を信ずるならば、その本尊や教えに感応して、次第にその人は濁った生命となり、不幸な人生を歩むことになるわけです。たとえば「稻荷」と称してキツネを拝んでいると、本尊のキツネの生命に、その人の畜生界の生命が感応して、その人の性格や行動、さらには人相まで似てきます。本来ならば過去と将来を考え、理性をもって生きるはずの人間が、畜生を拝むことによって計画性や道徳心が欠落し、人間失格の人生に変わってゆくのです。もし架空の本尊や架空の教義を信仰すれば、同じように人間でも、人生も、生活も実りのない浮き草のようなものになってしまいます。
せっかく信仰心に目覚めたのですから、理論的にも正しく、経典によってその正しさが証明され、現実に人々を幸福に導く真実の本尊と真実の教えを説き明す宗教に帰依すべきでありましょう。

宗派は分かれているが、到達する目的はおなじではないか

宗派は別でも宗教の目的は同じなのだから、どの宗派でもよいのだ、と主張する人の中には、「分け登る 麓の道は多けれど 同じ雲井(くもい)の月をこそ見れ」という歌を引き合いに出すことがあります。しかし、これはあくまでもひとつの古歌であって、実際は同じ麓の道でもひとつは他の嶺(みね)に至るもの、別な道は山ではなく池に至る道かもしれません。なかには命を落とすような危険な谷に通じている道であるかもしれません。ですから歌やことわざにあるからといって、それを証拠に宗教を論ずることはできません。
いま各宗派の教義をみると、教主も本尊も修行も経典も、それぞれまったく異っています。キリスト教はイエスキリストによって神(ゴッド)が説かれ、バイブルを教典としておりますし、イスラム教はマホメットによってアラーの神への帰依が説かれ、コーランを所依の教典としています。儒教は孔子によって道徳が説かれており、仏教は釈尊によって三世の因果律という正当な原理を根本として、人間の生命とその救済を説かれたものです。しかも同じ仏教の中でも、小乗教は劣応身という仏を教主として戒律を説き、一切の煩悩を断じ尽した阿羅漢という聖者になることを目的としています。これに対して大乗教の中でも、華厳経を所依とする華厳宗、方等部から発した真言宗、淨土宗、禅宗など、般若部の教理をもとにした三論宗など、これらは経典がそれぞれ違うわけですから、当然教義や修行、目的、教主がすべて異っているのです。
まして「唯有一仏乗」といわれる法華経は今までの四十二年間の教えとは比較にならない深遠な教理と偉大な仏の利益、そして真実の仏身が説き現わされたものです。その目的も、今までの経教では、三乗即ち声聞を目的とする者、縁覚を目的とする者、菩薩になることを目指す者をそれぞれ認めて、それに見合った教義と修行を別々に説いていたのですが、法華経に至ると、今までの三乗を目的とする教えは方便であり仮りのものなので、すべてこれを捨てよ、信じてはならないと釈尊自らが戒められ、一仏乗すなわちすべての人が仏の境界に至ることこそ真実の目的であると教示されました。
このように宗教と言っても宗派によって本尊も教義も目的もまったく異っているのです。もしあなたが“宗教”という大きな意味で、目的が“救済”ということだから、どれでも同じだというならば、それはあまりに大雑把な考え方だというべきでしょう。それはあたかも“学校”はどこも“教育”を目的にしていることは同じだからといって、小学校でも大学でも自動車学校あるいは料理学校でも、どこへ通っても同じだということと同じです。宗教の選択が人間の幸・不幸にかかわる大事であることを知れば知るほど、このような無責任で粗雑な判断は当を得たものでないことがわかると思います。

どんな宗教にもよい教えが説かれていると思うが

これについて二点から考えてみましょう。
その第一は、教義の善し悪しとは何によって決められるかということであり、第二には宗教とは観念的な理論のみではなく、実践がともなうものであるということです。
まず第一の教義の善し悪しですが、もし一般的な道徳や常識という見地に立てば、人殺しや盗みを奨励する宗教でないかぎり、よい教えを説いているようにみえます。
しかし、宗教は個人の身体と精神を含む全人格が帰命し、よりどころとするものですから、高い教えと低い教え、部分的な教えと大局的な教えの相違は、信ずる人間性に対して敏感に影響します。したがってひとりの人間をより根本から蘇生させ本源的に救済するためには低級で部分的なものではなく、高度で大局的な教えに帰依しなければなりません。
日蓮大聖人は、
「所詮成仏の大綱を法華に之を説き、其の余の網目は衆典に明かす。法華の為の網目なるが故に」(観心本尊得意抄・新編915頁)
と仰せられ、法華経という大綱があって、はじめて法華経以前に説かれた諸々の教えが生かされると説かれています。
仏教以外のキリスト教やマホメット教、儒教、神道、なども一見すると人倫の道が説かれており道徳的にはよい教えのようですが、人間の三世にわたる生命論や、人間が具有する十界三千の実相が説かれていませんし、これらを仏教とりわけ法華経と比べるとまったく低級な宗教であることがわかります。また、
「無量義とは一法より生ず」(無量義経・開結19頁)
ともいわれますように、唯一無二の大綱たる一法を信受するとき、種々の経々に説かれている功徳利益のすべてがはじめて生きてくるのです。
この一法こそ仏法の上からいうところの真実の一法であり、もっとも正しい教えなのです。
次に宗教には必ず実践がともないますから、理論的にはいかに立派な教えであっても、それが現実に生かされないものであれば、なんの役にも立ちません。
その理論的教義を現実に証明し民衆を救済する教主が出現するかしないかは、その宗教が真実か空想かという違いでもあります。教主がみずから出現し、正法正義を説いてそれを実践し証明したとき、はじめてその宗教は信憑性のある宗教といえるのです。
たとえば新興宗教のなかにモラロジー(最高道徳)という宗教がありますが、その教義は“釈迦・キリスト・孔子などの教えの中からそれぞれよいところだけを取り出して実践する”というものです。しかし、同じ釈尊の教えの中でも、二百五十戒、五百戒という戒律の実践を説く教えもあれば六度の修行〔布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)〕もあり、以信得入(いしんとくにゅう)すなわち信ずることが悟りに入ることであるとも説いています。このなかのどこをよい教えとして用いたり、反対に切り捨てたりするのでしょうか。
これを靴にたとえれば、雨の時はゴムの長靴が最適であり、登山には登山靴、野球・テニス・サッカーなどにはそれぞれ目的にかなった靴があります。また海水浴の時はだれでも、はだしになるわけです。
これらをすべてがよいからといって、すべての靴のよいところと、はだしをいっしょに用いることなどはできるわけがありませんし、そんなことを言えば狂人と笑われるでしょう。
このモラロジーという宗教が犯している誤りのひとつは、大綱と網目の相違、すなわち大局的・総合的な教義と部分的な善悪との判断がつけられず、無節操にどれでもよいと考えていることであり、もうひとつは生きた例証もなく、実践も不可能な空想論をかってに教義と称して信者に押しつけることにあります。一見するとよい教えのように思われる宗教でも、よく検討するならば、低級宗教や、邪悪な宗教であると気がつくでしょう。

どんな宗教にも、それなりの利益があるのではないか

すべての宗教かどうかはわかりませんが、低級宗教や教義もないような宗教、あるいは宗教ともいえない精神統一などにも一分の利益というべき結果が見られる場合があります。人によってはこの一分の結果や様相が御利益のように感じられるのでしょう。しかし、人間の生命には一念三千といって三千種類の生命状態が可能性として潜在しており、それが縁にふれて様々な作用をするわけですから、周囲の状態(縁)を変えることによって今までとは違った心境や状態になることもありうるのです。生活と仕事に追われていた人が、心を鎮めて何かを拝み祈ることによって、今までとは違った心境になるでしょうし、時には精神の変化が肉体に影響して病気が好転することも不思議なことではありません。
また、祈祷師や占い師などのように利根や通力という一種の超能力をもって、他人の願いごとを祈ったり、将来を占い、それが時にはかなったり当たったりすることもあるでしょう。これなども人間生命の潜在的可能性の一分が現われたものであり、あっても不思議ではありません。
しかし日蓮大聖人は、
「利根(りこん)と通力とにはよるべからず。」(唱法華題目抄・新編233頁)
と説かれ、人間の真の幸福は仏の境界に至ることであり、このような超能力によってはいけないと戒めています。
ともあれ、宗教の高低・正邪をとわず、いずれの宗教にも一部分の利益ともいうべきものがあるかも知れませんが、私たちの真実の幸福は一時的な神だのみや、目先の急場しのぎによって得られるものではなく、宇宙法界を悟った仏の教えにしたがい、正しい本尊を信仰することによって得られるものなのです。すなわち本仏の慈悲によって仏天の加護を受け、正しい信心と修行によって人間としての福徳を備え、清浄にして自在な仏の境界を現実生活の中で生かしていくことが仏教の目的であり、真実の大利益なのです。
たとえば、ここに幸福に到達する正しい道と不幸に至る邪な道があるとします。正しい道は向上するものですから、険しい坂道や困難な壁にぶつかることもありましょう。反対に邪な道は下降する道ですから、快適な下り坂があり途中には美しい花が咲いているかもしれません。しかし一輪の花や下り坂に魅せられて不幸な破滅の道を選ぶべきではありません。邪な宗教によって一分の利益がもたらされるのは、あたかも詐欺師がはじめに正直者を装い、おいしい餌を相手に与えるようなものであり、正しい宗教に帰依することを妨げようとする魔の働きなのです。
一時的、表面的な結果のみにとらわれることなく、正しい教理と経文、そして現実の証拠がそなわっている正しい宗教によって、正しい人生を歩むことこそ人間としてもっとも大切なことなのです。

仏教はすべて釈尊から出ているのだから、どれを信じてもおなじではないか

今から三千年前にインド北部のカピラ城の王子として誕生した釈尊は、十九歳のとき修行者となり、三十歳の時にガヤ城の近くで悟りを開きました。その後八十歳で入滅するまで五十年の間、人々に悟りの法を教えるためにさまざまな教えを説きました。
中国の天台大師は、釈尊の五十年間の説法を深く検討して、その内容から説法の時期を五つに区分しました。これが「五時(ごじ)」といわれるものです。また「八教(はっきょう)」という区分けもしていますが、ここでは「五時」によって説明しましょう。
第一は華厳時(けごんじ)といって、釈尊は開悟の後、直ちに二十一日間にわたって哲学的な十玄六相(じゅうげんろくそう)などの教理を説きましたが、聴衆はまったく理解できませんでした。
第二は阿含時(あごんじ)といって戒律を中心とした教えを十二年間説きました。これは三蔵教(さんぞうきょう)あるいは小乗教といわれ、仏教の中でもっとも低い教義です。
第三は方等時(ほうどうじ)といって幅広い内容の教えを十六年間説きました。これは弾訶(だんか)といって小乗教に執着する人を叱責し、大乗教すなわち自分のみでなく他人をも内面から救う教えに帰入(きにゅう)させるものです。
第四は般若時(はんにゃじ)といって十四年間、空すなわちこの世のものは何ひとつとして定まった実体などなく、執着すべきものはないという教えを説きました。この般若と第一華厳・第三方等は大乗教ですが、いまだ釈尊が久遠(くおん)の仏であることを明さず、人生の目的は三乗〔声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)・菩薩(ぼさつ)〕にあるとして、真実を示さない仮りの教えでした。釈尊は第五時の法華経を説法するために、まず無量義経を説きましたがその中で、“仏の眼をもって衆生の根性を見るに、人々は種々様々の心根だったので、まずそれを調えるために種々の方便の力を用いたり、仮りの法を説いたのである。”と説明し、
「四十余年には未だ真実を顕さず」(無量義経・開結23頁)
と説いています。そして法華経八年間の説法で、はじめて真実の教えとして、いかなる人もその身のままで仏の境界に至る一仏乗の法を説きあらわしたのです。
現在、東大寺を本山とする華厳宗は第一華厳時の教義を所依とし、タイやビルマなどに残っている戒律仏教や、律宗などは第二阿含時の経典を教義としています。また浄土宗、禅宗、真言宗、法相宗などは第三方等時の経典からそれぞれ宗義を立てており、天台宗や日蓮宗各派のように法華経を依経としていても迹門(しゃくもん)の観念的教理を中心としているなど、いずれの宗派も、末法現時に適した究極の教えである法華経本門の法を依教としていません。法華経本門の教えとは、釈尊が久遠の昔に成仏するために修行した根本の原因となる一法であり、それは日蓮大聖人が唱えあらわされた南無妙法蓮華経に尽きるのです。
このように同じ仏教といっても、教義の内容や目的、そして修行もまったく違うのですから仏の本意に基づく真実の教えに帰依しなくてはなりません。

先祖を崇拝することがまちがっているのか

先祖を敬い、崇めることは、仏法の教義に照して、決してまちがいではありません。むしろ人間としてたいへん立派な行為といえます。
しかし先祖を神として祭ったり、「仏」と呼んで祈願や礼拝の対象とすることは誤りです。なぜならば先祖といっても、私たちと同じようにひとりの人間として苦しんだり悩んだり、失敗したり泣いたりしながら生きた人たちであり、生前も死後も悪縁によれば苦を感じ、善縁すなわち正法によれば安楽の果報を受ける凡夫であることに変わりがないからなのです。言いかえれば人間は死ぬことによって、正しい悟りが得られるわけではありませんし、子孫を守ったり苦悩から救ったりできるわけでもないということです。
世間では先祖や故人を「仏」と呼ぶ場合がありますが、これは仏教の精神から見て正しい用法ではありません。仏とは仏陀(ぶっだ)とも如来(にょらい)ともいい、この世の一切の真実の相(すがた)と真理を一分のくもりもなく悟り極めた覚者という意味です。仏教の経典には阿弥陀仏や薬師仏、大日如来などたくさんの仏が説かれておりますが、これらの仏について、法華経には、
「此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり。十方三世の諸仏の眼目なり。三世の諸の如来を出生する種なり」(観普賢経・開結624頁)
と説かれ、日蓮大聖人も、
「三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏になり給ひしなり」(法華初心成仏抄・新編1321頁)
とのべられているように、多くの仏はすべて大乗経典たる妙法蓮華経という本法を種として仏となることができたのです。
この原理は私たちや先祖が何によって真に救われるかをはっきり示しています。
すなわち本当に先祖を敬い、先祖の恩に報いる気持ちがあるならば、生者死者をともに根本から成仏せしめる本仏本法に従って正しく回向(えこう)供養しなければなりません。
また先祖の意志を考えてみますと、先祖の多くはわが家の繁栄と子孫の幸せを願って苦労されたことでしょう。急病の子供を背負って医者を探し求めたこともあったでしょうし、妻子を助けるために我が身を犠牲にされた方もいたことと思います。このように一家の繁栄と幸福を願う先祖がもし、自分の子孫のひとりが、真実の仏法によって先祖を回向し、自らも幸せになるために信仰を始めたことを知ったならば、家代々の宗教を改めたことを悲しむどころか、「宿願(しゅくがん)ここに成れり」と大いに喜ぶはずです。
先祖を救うという尊い真心を正しく生かすためには、先祖の写真や位牌を拝むことではなく、三世諸仏の本種(ほんしゅ)である南無妙法蓮華経の御本尊を安置し、読経唱題して回向供養することがもっとも大切なのです。
大聖人は、
「父母に御孝養の意あらん人々は法華経を贈り給ふべし。(中略)定めて過去聖霊(しょうりょう)も忽(たちま)ちに六道の垢穢(くえ)を離れて霊山浄土へ御参り候らん」(刑部左衛門尉女房御返事・新編1506頁)
と、妙法によって先祖を供養するよう教えられています。

他の宗教で幸福になった人もいるのではないか

私たちの周囲には、さまざまな宗教や信仰によってそれなりの幸せを感じて暮している人もいるようです。しかし人は幸福そうに見えていても、その実体はわからないものです。
外見は大邸宅に住み、社会的にも恵まれた地位にありながら、非行や障害のある子供を持って、苦労している人もあり、家庭内の不和や、親族間の財産争いに明けくれている家もあります。
また、現在は一時的に満足できても、明日の確かなる保障は、どこにもないのです。
したがって、他の宗教を信じて確かに幸せになったなどと軽々に結論を下すことはできません。また、「積善(せきぜん)の家には余慶(よけい)あり」ということわざがあるように、その家の過去の人々の善業が、今の人々の身の上に余徳となって現われている場合もありましょう。
信仰には、確かに現世の利益がなくてはなりませんが、反面、その一時の小さな利益のみに眼がくらんではならないのです。
たとえば、ある宗教を信じ、高名な霊能者などに相談を持ちかけ、少しばかりよいことがあったり、商売が上向いたことがあったばかりに、その宗教や霊能者に執心して、真実の仏法の正邪や、正しい因果の道理に則った判断ができなくなってしまうようなものです。
他の宗教で幸福になったと思う人も、大概はこうした人々であって、いわば一時の低い利益に酔いしれているようなものです。厳しい言い方をすれば、浅薄な宗教を信ずるということは、より勝れた根本の教えを知らず、結果的には最勝の教えに背くということであり、その背信の罰をのがれることはできません。
ちょうど、悩みや苦しみを、お酒によってまぎらわしたり、麻薬の世界に一時の楽しみを求めた人たちが、その悦楽から抜け出せず、結局、アルコール中毒や、取り返しのつかない廃人となってしまうように、他宗の小利益に執する末路には、大きな不幸、すなわち、最高・最善の仏法に背く大罰が待ちうけているということを知らなければなりません。
つまり、いつとはなしに身心ともにむしばまれた、地獄のような生活に堕してしまうのです。
日蓮大聖人は、
「当(まさ)に知るべし、彼の威徳有りといへども、猶(なお)阿鼻(あび)の炎をまぬかれず。況(いわ)んやわづかの変化(へんげ)にをいてをや。況んや大乗誹謗(ひぼう)にをいてをや。是一切衆生の悪知識なり。近付くべからず。畏(おそ)るべし畏るべし」(星名五郎太郎殿御返事・新編366頁)
と説かれており、他宗を信ずることによってもたらされる現象は、けっして功徳とはならず、むしろ、正法への帰依を妨げ、不幸へと導く悪知識であると仰せです。
幸福の条件のひとつには、現在の生活の上におけるさまざまな願望の充足が挙げられますが、人間にとって、最高の幸せはなんといっても、過去・現在・未来の三世にわたる、ゆるぎない成仏の境界であって、真の幸福とはここに極まるものなのです。
そして、この三世にわたる成仏は、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の大法を離れては、絶対にありえないのです。

他の宗教によって現実に願いがかなったので信じているが

日蓮正宗以外の宗教を信じ、“商売がうまくいった”とか、“病気が治った”という人がいます。また日蓮正宗に入信しても、初めは周囲の反対や人間関係などで苦労する人もいるかもしれません。
しかし、正しい仏法とは私たちに正しい本尊と修行を教え、身心両面にわたって育成錬磨し、究極の目的である仏の道を成就させることを目的としています。
正しい仏道修行をすることによって、いかなる苦難や障害がおきてもそれを乗り越えていける人こそ真に幸せな人なのです。困った時だけ拝み屋のような宗教にすがって一時しのぎの解決をしても、それは人生の本質的な幸福につながるものではありません。たとえば、勉強をしない子供に試験の時に答えだけを教えて、よい点数をとらせたからといって、その子供の学力が向上することにならないと同様なのです。
もし現在、悩みがあったとしても、善因を積んで善果を生ずるように、その原因をよく知って、正法正義に帰依しなければ真の解決にならないことを知るべきです。
また、低俗な宗教によって悩みが一時的に解決したからといって、それが人生のすべてに通用し、人生の苦を根本から解決できることになるわけではありません。むしろ苦難に遭った時に努力することを忘れて一時の神だのみに走ることだけが身についてしまうでしょう。それはその人にとって決してよい結果とはいえません。
悩みや問題はひとそれぞれにさまざまですが、その人の生い立ちや周囲の縁、年齢や心がけなどによって解決のかたちもまた異なっています。
たとえば、種をまいても直ちに花を開かせることはできませんが、時が至れば必ず開花するように、時と機が熟さなければ解決しない場合もあるのです。
また誤った宗教に縁することによって、願いがかなったこと以上に生命が汚染され、将来大きな苦しみを生ずる業因となることをよく認識すべきです。
日蓮大聖人は、
「又一分のしるしある様なりとも、天地の知る程の祈りとは成るべからず。魔王・魔民等守護を加へて法に験(しるし)の有る様なりとも、終には其の身も檀那も安穏なるべからず」(諌暁八幡抄・新編1531頁)
と仰せられ、一時的に祈りがかなったように見えても、邪宗教によるものは、正法を隠蔽(いんぺい)しようとする魔の所為(行い)にすぎないと説かれています。
そして正法による祈りについて、
「大地はさゝばはづるとも、虚空(おおぞら)をつなぐ者はありとも、潮のみちひぬ事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」(祈祷抄・新編630頁)とものべられ、人生根本の大願たる成仏も、強い信心によって必ずかなうと教示されています。
また日寛上人も、日蓮大聖人建立の大御本尊の利益について、
「この本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり」(観心本尊抄文段・文段集443頁)
と仰せられています。
真実の祈りは、正法正義による仏道修行によってかなうのであり、低俗な宗教によるならば、かえって苦業をますことを知るべきでありましょう。

先祖が代々守ってきた宗教を捨てることはできない

誰しも先祖代々長く守ってきた宗教に愛着があり、その宗旨を捨てることは先祖の意に背くように思い、一種の恐れのような感情を抱くのは、無理からぬことです。
しかし、先祖がいったい、どうしてそうした宗教を持ち、その寺の檀家になったかということを、昔にさかのぼって、考えてみますと、その多くは、慶長十七年(1612年)に始まる徳川幕府の寺請制度によって、強制的に菩提寺が定められ、宗門人別帳(戸籍)をもって、長く管理統制されてきた名残りによるものと思われます。
江戸時代は信仰しているかどうかにかかわらず、旅行するにも、移住するのにも、養子縁組するにも、すべて寺請の手形の下付が必要だったのです。もちろん宗旨を変えたり檀家をやめることは許されませんでした。
したがって、庶民は宗教に正邪浅深があり、浅い方便の教え(仮りの教え)を捨てて、真実の正法につくなどという化導を受ける機会もありませんでした。せいぜい現世利益を頼んで、檀家制度とは別に、有名な神社仏閣の縁日や祭礼に出かけたり、物見遊山を楽しむぐらいのものでした。
しかし現代は、明治から昭和にかけての国家権力による宗教統制もようやく解けて、真に信教の自由が保障され、みずからの意志で正しい宗教を選び、過去の悪法や制度に左右されることなく、堂々と正道を求めることができる時代になったのです。
言葉をかえて言えば、今こそ先祖代々の人々をも正法の功力によって、真の成仏に導くことができる時がきたのです。
釈尊の本懐(ほんがい)である法華経には、
「此の経は持ち難し、若し暫くも持つ者は我即ち歓喜す諸仏も亦然なり」(宝塔品第十一・開結354頁)
と説かれています。すなわち、世間の人々の中傷や妨害のなかで、妙法蓮華経の大法を信じ持つことは、なまやさしいことではありません。しかし、持ち難く行じ難いからこそ、三世十方の諸仏は歓喜して、その妙法の持者を守るのだと説かれているのです。
また日蓮大聖人は、
「今日蓮等の類聖霊を訪ふ時、法華経を読誦し、南無妙法蓮華経と唱へ奉る時、題目の光無間(むけん)に至って即身成仏せしむ」(御義口伝・新編1724頁)
と仰せられています。
ほんとうに先祖累代の父母を救おうと思うならば、日蓮大聖人の仰せのように、一乗の妙法蓮華経の題目の功徳を供え、真実の孝養をつくすことが肝心なのです。今のあなたが、先祖が長い間誤りをおかしてきた宗教を、そのまま踏襲することは、あまりにもおろかなことです。自分のあさはかな意にしたがうのではなく、正法にめざめてこそ、始めて先祖累代の人々を救い、我が家の幸せを開拓し、未来の人々をも救いうるのだということを知るべきです。

自分の気に入った宗教が一番よいと思う

近年、世間を騒がせたオウム真理教の信徒たちは、麻原教祖に洗脳されて、ある者は殺人者となり、ある者は見せしめのために殺されました。
またアメリカにおいては、人民寺院を標榜(主張)する新興宗教の教祖の教えによって、集団生活をしていた千名近い信者が、ことごとく自殺して果(は)てるというすさまじい事件もありました。
こうしたことは、極端な例ですが、誤った思想や宗教の恐しさを如実に象徴したものといえます。
人はかたよった思想や邪宗教にとりつかてれしまいますと、その教えに熱中するあまり、人を人とも思わず、人の命すら自分たちの集団の論理で平気で葬ってしまうのです。
思想や信条、ことに宗教という人間の生活規範にかかわる大切なものは、何よりも明るく清々しく健康的な理念で、うら打ちされていることが必要です。人々を心の底から躍動させる歓びにあふれたものでなければなりません。
洋服や食べ物ならば、自分の好きなものを選べばよいのですが、自分の人生や家庭、生活に重大な影響を持つ宗教の場合は、その根本たる本尊や教義の内容を正しく取捨選択することが大切です。
宗教の正邪・勝劣を知るためには、少なくともその宗旨が何を本尊とし、何を信仰の対象としているかということを、まず尋ねる必要があります。
また、本尊とともに、その宗教の教義が正しいと判断されるためには、一切の人々が過去・現在・未来の三世にわたって救済されるのみならず、地獄界から仏界(ぶっかい)に至る十界(じっかい)のことごとく生きとし生けるもののすべてが、根本的に救われる道理と法門が解き明かされていなければなりません。
日蓮大聖人は、
「同じく信を取るならば、又大小権実(ごんじつ)のある中に、諸仏出世の本意、衆生成仏の直道(じきどう)の一乗をこそ信ずべけれ。持(たも)つ処の御経の諸経に勝れてましませば、能く持つ人も亦諸人にまされり」(持妙法華問答抄・新編297頁)
と仰せられています。
信仰を志すならば、好ききらいで判断するのではなく、もっとも勝れた本尊と教義のもとに誓願の尊さと修行の正しさを教示された宗教を求めるべきです。そして永遠性や普遍性にとみ、広大無辺の功徳の備わった世界一の宗教を持つべきです。

自分は先祖の位牌を祭っているので、それで充分だ

位牌(いはい)とは昔中国において、存命中に受けた官位や姓名を記した木牌(もくはい)に始まるといわれています。
日本では、葬儀のときに白木(しらき)の位牌に法名、俗名、死亡年月日、年齢を記して、祭壇に安置します。これは、回向のためと、参列者に法名などを披露するためのならわしといえます。
したがって位牌そのものを、礼拝の対象にしたり、死者の霊が宿っているなどと考え、それに執着するのは誤りです。
位牌はけっして本尊のような信仰の対象物ではなく、位牌を拝んだからといって、死者の霊を慰めることができるというものではありません。
世間の多くの人々が白木の位牌を、のちに金箔などの位牌に改め、その位牌を守ることがいかにも尊い大事な意味を持っているように考えていますが、これも本来の死者の成仏、死者に対する回向、供養とは何の相関関係もないことなのです。
真実の死者に対する供養のためには、なによりも一切の人々を救済成仏させうる力と働きと法門の備わった本門の本尊を安置し、本門の題目を唱えて、凡身(ぼんしん)を仏身へ、生死を涅槃(ねはん)へと導くことに尽きるのです。
日蓮大聖人は、
「今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益(りしょうとくやく)有るべき時なり。されば此の題目には余事を交へば僻事(ひがごと)なるべし。此の妙法の大曼荼羅を身に持ち心に念じ口に唱へ奉るべき時なり」(御講聞書・新編1808頁)
とも、また、
「但南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ」(九郎太郎殿御返事・新編1293頁)と説かれています。
父母の成仏や、我が身の成仏を願い、一家の幸せを築くためには、一閻浮提(いちえんぶだい)第一の本尊を持ち、その御本尊に整足する成仏の種子たる南無妙法蓮華経の本門の題目を唱える以外には絶対にありえないのです。
したがって位牌も塔婆も、この本門の本尊のもとにあって、しかも題目をしたためてこそ、死者の当体を回向する十界互具(じっかいごぐ)一念三千(いちねんさんぜん)の法門の原理が具わるのです。梵字(ぼんじ)や新寂(しんじゃく)・空(くう)などの字が刻まれた他宗の位牌や塔婆を建てることは、仏の本意にもとづく供養の仕方ではありませんから、先祖のためには、かえってあだとなり、実際には先祖を苦しめ正法不信の罪過を重ねる結果となってしまうのです。

信仰の自由は憲法でも保障されているのだから、なにを信じてもよいはずだ

日本国憲法の第二十条に、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と、明確に信教の自由が保障されています。
この条目は、かって古代、中世より近世にいたる長い国家権力による、宗教統制の歴史の反省から、信教の自由が国民の一人ひとりに始めて保障されたものです。
朝廷による宗教への保護と規制、また、江戸幕府の寺請制度と転宗の禁制、近代国家主義下の神道の強制などの歴史を経て、今こそ自由にみずからの意志で宗教を選び、弾圧、迫害の恐れもなく、堂々と信仰ができる時代となったのです。
しかし、ここで私たちが注意しなくてはならないことは、どのような信仰を持とうとも、たしかに法律の上では自由を保障される時代を迎えたとはいえ、信教の自由の意味を単に、宗教の正邪、善悪を無視して、何をどう信じてもいいと、安易にとらえてはならないということです。
信教の自由は、個人個人が自分の意志で、宗教の正邪・浅深を判断し、より正しく勝れたものを選び取る権利を持つということであり、その権利の行使には、それを正しく役立てていく、主権者としての責任もあるのです。
法律の上では宗派の持つ教義の正邪の判断を下し、規制することはできませんが、実際に宗教を選ぶという時には、一人ひとりが正邪を厳しく判定して、唯一の正法を選ぶことが肝要です。
信教に限らず、尊い自由の保障を受けた私たちは、この自由の基本的な権利を積極的に生かし、自らの責任において、立派にその恩恵を行使していく意志を持たなくてはなりません。
せっかく憲法で保障された信教の自由を、放逸(わがまま)の意味に曲解するのは、あまりにも無責任に過ぎます。

信仰は必要なときだけすればよいのではないか

“信仰を必要とする時”とは、どのような時を指すのでしょうか。苦境に立ってわらにもすがりたくなる時なのでしょうか。それとも慣例的に神社仏閣に参詣する正月や盆、彼岸を指すのでしょうか。あるいは冠婚葬祭の時でしょうか。または人生のなかで老境に至った時という意味でしょうか。
こうしてみると、“信仰を必要とする時”といっても、受けとり方によって意味がまったく異りますから、一部分のみをとらえて、そのよし悪しを論ずることはできませんが、いま質問の内容について、わかりやすく説明するために、“信仰をしなくともよい時”があるかどうかを考えてみましょう。
そのためには、まず信仰にどのような意義があるかを知る必要があります。
信仰の意義として大要次の三点が挙げられます。
第一に正しい宗教は、人間の生命を含む時間空間を超えた宇宙法界の真理を悟った本仏が、私たち衆生に対して人間のもっとも大切な根本の道を教え示されたものなのです。それはあたかも人生という草木を生育している大地のようなものであり、人間という電車を幸せに向って快適に走らせるためのレールのようなものです。私たちの人生は老いも若きも平等に時々刻々と過ぎ去って行きます。誰もが毎日毎日が、生きた草木であり、走りつつある電車なのです。はたして生きた草木にとって大地がなくてもよい時があるのでしょうか。また走りつつある電車にレールがなくてもよい時があるのでしょうか。宗教とは人間の根本となる教えということであり、宗教のない人生は人間としての根本の指針を欠落した、さまよえる人生というべきなのです。
第二に正しい宗教を信ずることは、成仏という人間としてもっとも崇高な境界を目標として修行することです。成仏とは、個々の生命に仏の力と智慧を涌現させ、何ものにも崩れることのない絶対的に安穏で自在の境地を築くことであり、この高い目的地に至るためには、たゆまぬ努力と精進が必要です。どんな世界でも、高い目標を目指し、ひとつの道を極めるためには、正しい指導とたゆまぬ修行鍛錬がなければならないことはいうまでもありません。思いついた時、気が向いた時だけ一時的に信仰するというのは、学生が気が向いた時だけ学校に行くということと同じであり、真の目的をなしとげることはできません。
第三に正しい宗教とは人生の苦悩を根本的に解決するためのものであり、これを実践(信仰)すれば自ずと苦悩を乗り越える勇気と智慧などの生命力が備わるのです。それのみならず正法を信ずることによって、日常生活が仏天の加護を受けることも厳然たる事実です。自分の将来に対する不安や性格的な悩み、さらには家族や職場での問題など、誰もが多くの解決すべき難問や悩みを抱えながら生きているのではないでしょうか。また明日どころか一時間さきに何が起きるかわからない私たちは、自分の人生がいつ、どこで幕を閉じるかもわからないのです。“必要な時が来れば信仰する”などと言って、今日一日を自分勝手な思いつきで過ごすことは、かけがいのない人生の時間を無駄にしているといわざるをえません。
あなたにとって“信仰が必要な時”、それはいまを置いてないのです。

歴史のある有名な神社やお寺の方がありがたいと思うが

奈良や京都の歴史的に名高い神社や寺々は、今もなお多くの観光客が訪れています。
たしかに年月を経た建物や、静かな庭園のたたずまいには、いかにも心をなごませる落ち着いたふんい気があります。しかし、よくよく考えてみなければならないことは、宗教の本来の役割は物見遊山や観光のためではなく、民衆を法によって救うことにあるということです。
歴史的に有名であったり、大ぜいの観光客が訪れるということと、実際にその寺院が人々の救済に役立っているか、また参詣者に功徳を与えているかということとは別の問題なのです。
昔の人の川柳(せんりゅう)に「大仏は見る物にして尊ばず」という一句がありますように、奈良の大仏を見に行く人や、見上げてその大きさに感心する人はあっても、心から信じて礼拝合掌する人はいないものです。
信仰心をもって行くというよりは、観光のために訪れるというのが本心でしょう。
古都の神社や寺々は、もはや宗教本来の目的を失い、拝観料などの観光による財源で建物を維持することに窮々としているというのが現状です。
そのほか、正月や縁日に大ぜいの参詣者でにぎわう有名な寺社も、宗旨の根本である本尊と教義を調べてみると、まったく根拠のない本尊であったり、仮りの教えであるなど、今日の人々の救済になんら役立つものではなく、むしろ正法流布のさまたげとなっているのです。
ところが宗教の正邪を判断できない人々は、開運・交通安全・商売繁盛・厄除けなどの宣伝文句にさそわれ、これら有害無益の寺社におしかけ、自ら悪道の原因を積み重ねているのです。
日蓮大聖人は、
「汝(なんじ)只正理を以て前(さき)とすべし。別して人の多きを以て本とすることなかれ。」(聖愚問答抄・新編402頁)
と説かれているように、正しい本尊と、勝れた教法によって、民衆救済の実をあげていくところに宗教の本質があるのであって、ただ歴史が古い、名が通っている、多くの参詣者でにぎわっているということをもって、その寺社を尊んだり勝れていると考えてはならないのです。
歴史的な建物や、庭園・遺跡などには、それなりの価値はあるのでしょうが、人々を救済するという宗教本来の目的から見れば、これら有名な寺社にはなんらの価値もないばかりか、むしろ人生の苦悩の根源となる悪法と、社会をむしばむ害毒のみがうずまいていることを知るべきです。

邪宗という呼び方が気に入らない

邪宗という言葉は、日蓮正宗の人が、やみくもに他宗を攻撃するために勝手に使っているのではありません。釈尊は法華経に、
「正直に方便を捨てて但無上道(むじょうどう)を説く」(方便品第二・開結124頁)
と、四十余年にわたって説き続けてきた方便の経経を捨てることを説き、これ以後に説示する法華経こそ最高唯一の無上道であると言われています。また方便の経経に執着していた弟子の舎利弗(しゃりほつ)は自ら、
「世尊我が心を知しめて、邪を抜き涅槃を説きたまいしかば、我れ悉く邪見を除いて空法(くうほう)に於いて証を得たり」(譬喩品第三・開結132頁)
と述懐(じゅっかい)していますが、ここにも低級な教えによる考えを「邪見」と称しています。
また、日蓮大聖人は末法の教主として、
「正直に権教の邪法邪師の邪義を捨てヽ、正直に正法正師の正義を信ずる」(当体義抄・新編701頁)
ことが、もっとも大切であると教えています。
これらのことからも、邪宗・邪法などの言葉は仏の経説にしたがって使用していることがわかると思います。
ではなぜ他の宗派に対して、攻撃的なしかも刺激の強い邪宗という呼び方をするのかといいますと、個人の苦しみや社会の不幸はすべて邪(よこし)まな宗教が元凶となっているからであり、言いかえると誤った宗教、低劣な教えがこの世の不幸のたねだからです。
昭和二十年に広島市と長崎市に投下された原爆は一瞬のうちに何十万人という市民、それもなんの罪もない子供や老人まで無差別に殺戮(さくりく)しました。いま私たちが、核兵器の行使(こうし)が悪魔の所業であると叫び、この憎むべき不幸を二度とくり返してはならないと訴えるのは当然でしょう。そしてその不幸の原因が戦争であり、戦争は人間社会の誤った思想によって誘発されたことを考えますと、誤った思想が何十万人、いな世界大戦で戦死した人を含めると何百万人、何千万人の命を奪ったことになるのです。
このような殺人思想に対して、邪教・魔説と指弾することは言いすぎでしょうか。失礼に当たるから控えるべきなのでしょうか。
涅槃経(ねはんぎょう)に、
「悪象のために殺されては三趣(さんしゅ)に至らず、悪友のために殺されては必ず三趣に至る」と説かれています。この意味は災害や事故によって命を失っても地獄・餓鬼(がき)・畜生というもっとも苦しむ状態にはならないが、誤った教えを信ずるものは死して後に必ず三悪道に墜ちて永劫(えいごう)に苦しみ続けるということです。
一切の不幸の元凶となる誤った宗教は、あたかも覚醒剤や麻薬のように、本人も気付かないまま、いつしか次第に身も心もむしばみ人生を狂わせていくのです。
正しい仏法に目醒めた私たちが、誤った宗教を不幸の根源であると破折(はしゃく)し、邪宗と称することは、悪法に対する憤(いか)りであり、いまなお知らずに毒を飲んでいる人に対する警告の表れでもあるのです。

宗教の必要性を認めない

宗教を否定し、信仰の必要性を認めないという人の中には、感覚的に信仰を嫌う人もあれば、今までまったく無関心に生きてきたことによって、その必要性に気づかない人もあることでしょう。
しかし、ほとんどの人々は自分なりの信念を持って、日々努力を重ねて自分の一生を生きていけばよいと思っているようです。たしかに自分の信念と、毎日の努力によって一家をささえ、子供を育て、それなりの財産を築き、社会的な地位を得るということは、尊い一生の仕事であり、これとても、並たいていの努力でできるものではありません。
真実の宗教は、人間の生命を説き明かし、人生に指針を与えるもっとも勝れた教えですから、これを信ずることは仏の正しい教えによって、心の中に秘められた願いを成就し、私たちの持つ信念を、より崇高な信念へと高め、人間性をより豊かに、より充実したものに育むことになるのです。
たとえば、山の中の小さな谷川をわたるのには、航海術を学ぶ必要はないでしょう。けれども、太平洋などの大海原を渡るには、正しい航路を知り、進路を定め、航海するための知識や技術が、どうしても必要なのです。
私たちの人生にとっても、一生という長い航海には、仏の正しい教えによって航路を正し、自分を見きわめ、真実の幸せな人生という目標に到達するための知識や訓練ともいうべき、正しい信仰と修行が必要なのです。
真実の宗教を持たず、正しい信仰を知らない人は、あたかも航海の知識もなく、進路を見定める羅針盤も持たずに大海原に乗り出した船のように、人生をさまよわなければなりません。
釈尊は涅槃経というお経の中で、信仰のない人のことを、
「主無く、親無く、救無く、護無く、趣無く、貧窮飢困ならん」と説いています。
すなわち、正しい宗教を持たない人は、仏という人生における根本の師を知らず、正法の財宝(功徳)に恵まれない、心の貧しい人だというのです。さらに長い一生の間には、経済苦や家庭不和や社会不安の影響などによって、深刻な悩みや苦しみが押し寄せてくる時もありましょう。少なくとも病苦・老苦・死苦などは、誰もが必ず直面しなければならないことなのです。
実際に自分がこうした苦悩に遭遇した時のことを想像してみて下さい。はたして本当に自分の信念と努力で、このように悩みや苦しみを乗り越えることができるのでしょうか。少なくとも自分一人の力で、その苦しみのどん底からはい上がり、我が身の不幸を真実の幸せな人生へと転換させることは容易なことではありません。
まして一切の苦悩に打ち勝って、安穏な、しかも行きづまりのない自在の境涯を開拓して生きるなどということは、できるものではありません。
ここに、正しい信仰によっていかなる障魔にも負けない不屈の闘志と、仕事や家庭など人生におけるすべての苦難に打ち勝つ力を養うために、宗教の必要性があるのです。

現実に神や仏がいるとは思わない

はじめに、神についていいますと、キリスト教やイスラム教で立てる天地創造の神ゴッドやアラーは、予言者と称されるキリストやマホメットが経典に説示しただけのことで、現実にこの地上に姿を現したことはありません。
天理教の天理王命(てんりおうのみこと)や金光教の天地金乃神(てんちかねのかみ)なども、教祖がある日思いついたように言い出したもので、この世に現れたことはありません。
また神社の中には、天満宮や明治神宮などのように菅原道真とか明治天皇などの歴史上の人物を祭っているところもありますが、これらは偉人を敬慕する感情や時の政治的配慮などによって、人間を神にまで祭りあげてしまっただけのことで、神本来の働きをもっているわけではないのです。
本来、神とは原始的時代の自然崇拝の産物であり、宇宙に存在するさまざまな自然の作用には、それぞれ神秘的な生命すなわち神が宿っているという思想に端を発しています。
したがって真実の神とは、ひとつの人格や個性を指すものではありませんし、神社などに祭られて礼拝の対象となるものでもありません。あくまでもすべての生き物を守り育むことに神の意義があるのです。この神の力が強ければ人々は平和で豊かに暮らせるわけですが、仏法においては、神の作用は正しい法の功徳を原動力とし、これを法味といい、諸天諸神が正法を味わうとき、仏の威光と法の力を得て善神として人間を守り、社会を護る力を発揮すると説いています。
次に仏についていいますと、仏典に説かれるたくさんの仏や菩薩たちも、ほとんどは歴史的に地上に出現したことはありません。身近なところでは、念仏宗の阿弥陀如来や真言宗の大日如来なども実在したことのない仏です。
ではなぜ架空ともいえる仏や菩薩が経典に説かれたのかというと、インドに出現した釈尊は法界の真理と生命の根源を説き明かすために生命に備わる働きや仏の徳を具象的・擬人的に仏・菩薩の名を付けて表現されたのです。たとえば智慧を文殊菩薩、慈悲を弥勒菩薩、病を防ぎ、癒やす働きを薬師如来・薬王菩薩、美しい声を妙音菩薩というように、それぞれに名を付けられました。
これらの仏・菩薩は教主である釈尊の力用を示すために説かれたわけですが、釈尊は厳然とインドに誕生され、宇宙の真理を悟り、人々に多くの教えを遺されました。釈尊の出現と経典に説かれる深義に疑いをもつ人はいないでしょう。
この釈尊が究極の教えとして説かれた法華経の中に、末法に出現する本仏を予証されました。その予証とは、法華経を行ずる故に刀や杖あるいは瓦石で迫害されること、悪口罵詈されること、しばしば所払いの難にあうこと、迫害者の刀が折れて斬ることができないなどのことですが、この予言どおりに、うち続く大難の中で民衆救済のために究極の本法たる文底の法華経を説き、未来永劫の人々のために大御本尊を顕わされた御本仏こそ日蓮大聖人です。
日蓮大聖人はひとりの人間としての人格の上に本仏の境界を現実に示されてのです。
もしあなたが、仏は人間の姿をしたものではなく、金ピカの仏像や大仏そのものと考えて「そのような仏など実在しない」というならば、それはあまりにも幼稚な考えであり、ためにする言い掛かりというべきです。

宗教は精神修養にすぎないのではないか

精神修養とは、精神を錬磨し品性を養い人格を高めることですが、一般には心を静め精神を集中することをいうようです。
芸術やスポーツなどを通して精神を磨き、人格を高めるならば、それは立派な精神修養です。
数多い宗教のなかには、精神修養の美名を看板にして布教するものがあります。その代表的なものとして禅宗があげられます。
煩雑な毎日に明け暮れている現代人にとって、心を静めて精神を集中する機会が少ないためか、管理職者や運動選手の精神統一の場として、あるいは社員教育の場として、座禅が取り入れられ、ブームになっているようです。
では宗教の目的は精神修養にあるのかという点ですが、仏教では、精神を統一し心を定めて動じないことを禅定(ぜんじょう)とか三昧(さんまい)といい、仏道修行のための初歩的な心構えとして教えており、これが仏教の目的でないことはいうまでもありません。
また人格品位の修養についていえば、仏教の中の小乗教では、悪心悪業の原因は煩悩にあり、煩悩を断滅して身も心も正された聖者になることがもっとも大切であると説き、戒律を守り智慧を磨くことを教えました。これを二乗(声聞・縁覚)の教えといいます。しかし大乗教では、自分だけが聖者になっても他を救おうとしないのは狭小な考えであり、思考や感情に誤りのない聖者でも、それだけでは真実の悟りではないと、小乗教を排斥し、自他ともに成仏を目指す菩薩の道を示しました。
そして究極の法華経では、さらに進めて、仏が法を説く目的は、二乗や菩薩になることではなく、一仏乗といって衆生を仏の境界に導くことに尽きるのであると教えられたのです。これを開三顕一(かいさんけんいち・三乗を開いて一仏乗を顕す)といいます。
もちろん宗教で説く二乗や菩薩の道が直ちに現今の精神修養とまったく同じということではありませんが、少なくとも二乗や菩薩の教えの一部分に人格と品性の向上を図る精神修養の意義が含まれているということができましょう。
釈尊は、
「如来は但一仏乗を以っての故に、衆生の為に法を説きたもう」(方便品第二・開結103頁)
と説かれ、日蓮大聖人も、
「智者・学匠の身と為りても地獄に墜ちて何の詮か有るべき」(十八円満抄・新編1519頁)と仰せられるように、仏法の目的は精神修養などに止まらず、成仏すなわち三世にわたる絶対的な幸福境界の確立にあるのです。
したがって、禅宗などで精神修養を売りものにしていることは、教義的に誤っているだけでなく、本来仏教の目的からも大きな逸脱を犯す結果になっているのです。

「さわらぬ神にたたりなし」で、宗教に近づかない方がよいと思うが

「さわらぬ神にたたりなし」」とか「参らぬ仏に罰は当たらぬ」ということわざは、信仰とかかわりを持たなければ、利益も罰も受けることはないとの意味ですが、一般には広くなにごとも近づかなければ無難であるという意味に使われています。
たしかに間違った宗教には近づかない方が無難ですが、こと正しい仏法に対して、このような考えを持つことは誤りです。
釈尊は、「今此の三界は皆是れ我が有なり。其の中の衆生は悉く是れ我が子なり。」(譬喩品第三・開結168頁)
と説かれ、世の中のすべては仏の所有するところであり、人々はすべて仏の子供であるといわれています。いいかえると、仏法とは文字通り仏が悟られた真理の法則ということであり、私たちは誰ひとりとしてこの真理の法則から逃れることはできません。
仏教では宇宙全体を指して法界といいますが、日蓮大聖人は、
「法界一法として漏るゝ事無き」(御義口伝・新編1798頁)
と仰せられ、仏が開悟した法は宇宙法界に漏れなくゆきわたっていると教えられています。
ですから信仰を持たなければ罰も当たらないというのは、警察署に近づかなければ罰せられることもないということと同じで幼稚な理屈であることがわかるでしょう。
もし正しい仏法に近づかなければ、真実の幸福をもたらす教えを知ることができないわけですから、それこそ日々の生活が、仏に背き、法を破る悪業の積み重ねとなっていくのです。
ましてや仏の慈悲は人を救い善導するところにあり、たたりなどあるわけがありませんし、罰といっても、我が子を導く手段として叱ることと同じで、それも親の愛情の一分であることを知らなければなりません。
その意味から考えても、罰が当たるから仏法に近づかないというのは、親や教師がうるさいからといってこそこそ逃げ回っている子供と同じことで、およそ健全な人間に育つはずはないのです。
いかに自分では信仰と無縁のつもりでいても、この世に生きている人はすべて、正しい教えによらなければ真の幸福を得られない存在であり、又仏の掌の上で生きていることに違いはないのですから、自らの人生をより爽快なものとし、充実したものとするため一日も早く正しい仏法に帰依することが大切なのです。

現実生活の幸福条件はお金が第一ではないか

私たちが日常生活を営むうえで、衣・食・住の全般にわたってお金がたいへん重要で便利な役割を果たしています。物品の価値がお金に換算できることはもちろん、人間や機械の労力・能力そして生命までが金銭で贖われています。
そのためにお金をすべてに先行して価値あるもののように思い、幸福条件の第一に挙げる考えの人は少なくありません。
しかしどんなに貴重なお金であっても、所詮は人間社会によって産み出された“物”であり、生活上の手段のひとつにすぎないのです。言い換えれば、生きている人間そのものが主体者で、金銭は人間によって考え出された流通上の約束ごとのひとつであるということです。
これを間違えて、人間がお金に使われたり振り回されるところにとんでもない悲劇が生ずるのです。たとえば、お金をけちけちとためて満足な食事もせず、結局ためたお金を使うことなく餓死した老人がいました。また遺産をめぐる親族間の争いが高じて殺人事件に発展した例、サラ金苦においつめられて殺人や強盗に走る例もあれば、一家心中の例などお金をめぐる悲惨な事件は毎日のように報道されています。これはお金というものが、私たちの生活に大きな比重を占めている証しでもありますし、生死にかかわるほど大きな影響力をもっている証左でもあります。と同時にこれらの事例から、同じお金であってもそれを使う人間によって幸にも不幸にもなることがわかります。
つまり、お金は生活する上に必要なものですが、またお金によって不幸を招くこともあるということなのです。
ここに主体者である人間を確立しなければ、真実にお金も財産も正しく生かされないという道理を知るべきなのです。
日蓮大聖人は、
「蔵(くら)の財(たから)よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり」(崇峻天皇御書・新編1173頁)
と仰せられています。
私たちにとって大切な財宝はいくつかありますが、お金などの蔵の財よりも、健康な身体が大切であり、それよりも大切な宝が人間の根本ともなる心の財なのです。
お金は、現代の幸福になる条件のひとつであることに違いはありませんが、それが幸福のすべてではありません。根本にある心の財を正しい信仰によって磨き、福徳に満ちみちた人間になったとき、はじめて蔵の財(お金)にも恵まれ、それを正しく自在に使いこなしていけるのです。
せっかくためたお金や財産を不幸や悲劇の種にするか、幸福の種にするかは、その人の心と福徳によって決まります。
物心両面にわたる幸福な人生を築くためにも、まず正しい仏法に帰依し、信仰に励むことから出発しなければならないことを知るべきでしょう。

学歴や社会的地位こそ幸福の要件ではないか

レッテル社会といわれる現代では、より安定した生活を送るためには有名校を卒業して大企業や官公庁に入り、重要ポストにつくことが幸福の要件と考えている人があります。
これについて二点から考えてみましょう。
第一の点は、はたして社会的な地位につくことが幸福の条件なのか、ということです。
最近、四十代、五十代の、いわば社会的に重要な地位にある年代のエリートが、仕事上の行きづまりや人間関係の悩みによってノイローゼになったり、自殺に走るケースが頻繁に起こっています。
現代の熾烈な競争社会の中で責任のある地位につくことは、それだけ大きな負担となり、身心ともに苦労も多くなることは当然です。
ではなぜ人々は苦労の多い地位を望むのでしょうか。その理由は、ひとつには人に負けたくない、人の上に立ちたいという本能的な願望であり、もうひとつには地位が向上すれば経済的に豊かになる、周囲から敬われることなどが挙げられると思います。
もし願いどおりの地位についたとしても、それに適合しない性格であったり、負担に堪える人間的な能力がなければ、その人は苦痛の毎日を送ることになるのです。
第二の点は、学歴至上主義がもたらす弊害と不幸がいかに大きいか、ということです。
たしかに一流大学を卒業した人は、それだけ幼いころから勉学に励んできた努力によって、能力的に優れています。深い学識と幅広い教養による英知はいずこの社会や職場にあっても、知的資源、人的資材として重要視されることは当然でしょう。
しかし誰もが一流校には入れるわけではなく、ごく一にぎりの人だけが許される狭き門を目指して、過酷な受験戦争がくり広げられ、子供は友情を育むどころか、同級生を敵視する状態に追いやられています。
毎年受験シーズンになると受験に失敗して自殺するという悲惨な事件が相つぎますが、幼いころから親や先生の「有名校に入る人は優秀、入れない人は敗北者」という言葉を聞いて育ったならば、受験の失敗がそのまま人生の破滅になると考えるのは当然です。
まさに誤った学歴偏重の風潮が生む不幸の一面であり、その風潮の中で育った子供は、またさらに学歴偏重の人生観を増幅していくのです。
このような教育制度や教育行政のゆがみは教育の部分だけをとり上げて改革しようとしても根本的な解決にはなりません。
なぜならば、教育問題は時代や社会機構全体と深く関わっており、さらには人生観・価値観ともつながっている事柄だからです。
釈尊は現代を予言して、末法は五濁の時代であると喝破されています。五濁とは時代が濁り、社会が乱れ、人間の生命も思想も狂うことを指しており、その原因は誤った宗教にあると説いています。
したがって健全な人生観や社会思想は、ひとりひとりが正しい宗教に帰依し、しかも正法が社会に広く深く定着したときに醸成されるのであり、真実の幸福は表面的な学歴や肩書きによってもたらされるのではなく、真実の仏法を信仰し修行することによってもたらされるのです。
以上の二点だけを取り上げてみても、学歴や社会的地位がそのまま個人の幸福の絶対的条件になるわけでもなく、社会の福祉につながるわけでもないことがわかるでしょう。
真実の幸福とは、いかなる負担や困難をも悠々と解決して乗り越えていくところにあります。個々の人間に生命力を与え、勇気と希望と智慧をもたらす道は、真実にして最勝の仏法を信仰し修行することに尽きるのです。
身につけた学識と教養、そして大きな責任をもつ社会的な地位、それらをより充実したものとし、より価値あるものとするために、正しい信仰が絶対に必要なことを知るべきです。

いまが楽しければそれでよいではないか

「いまが楽しければ」という言葉のひびきには、まったく将来のことを考えず、苦しみを避けて、いまの楽しみばかりを追い求めるというニュアンスが感じられます。
それは、おそらく、若いときの楽しみは若い時にしか味わえないという考えから、オートバイの爆音や、ロックの喧噪の中に我を忘れ、酒や歌、そしてダンスに陶酔のひとときを過ごす若者たちに共通した考えかたであると思います。
その反面、いまの楽しみより将来の楽しみを目指して、つらさに耐え、少しでも自分のもてる能力や才能を伸ばそうと、懸命な努力を重ねている若者たちも、けっして少なくありません。
安易に目前の快楽のみを求める若者たちの行きかたは、蟻とキリギリスの寓話の教訓をまつまでもなく、苦労を続けながらも真剣に生きている多くの人たちに比べて、あまりにも人間として分別のない、しかも後に必ず苦しみと後悔をともなう生きかたではないかと思います。
だからといって、人間は若いときには何が何でも苦労ばかりをして、楽しみなどを求めてはいけない、というのではありません。
青年の時代こそ、人生を真に楽しんで生きていくための基盤を、しっかりと築き上げる時であると言いたいのです。
「楽しみ」というものの本質について、仏教では、五官から起る欲望を五識によって満たし、意識(心)にここちよく感ずることであると明かしています。五官とは、眼(視官)・耳(聴官)・鼻(嗅官)・口(味官)・皮膚(触官)をさします。すなわち、眼にあざやかな色形を見る楽しみ、耳にここちよい音や響きを聞く楽しみ、鼻にかおりのよいものを嗅ぐ楽しみ、口中の舌においしいものを味わう楽しみ、皮膚(身体)にここちよいものが触れる楽しみを欲するところを五欲といい、五官によって判断することを五識といいます。
要するに、人間の楽しみのほとんどは、この五欲の一つ一つが満たされるか、そのいくつかが同時に満たされるかの度合いに応じて起こる、情感であることがわかると思います。
したがって、五欲そのものは、けっして悪いものではありません。しかしそこに、人間の煩悩〔貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)などの迷い〕が働きかけた時、はじめて五欲は、無謀性を発揮し、欲望の暴走となってあらわれたり、意のままに満たされない不満がつのって、怒りを感じたり、落胆のあまり、自暴自棄になったりして、自分や社会をめちゃめちゃに破壊してしまうことにもなりかねないのです。
五欲とは、ちょうど火のようなものだといえます。火そのものは悪でも善でもありませんが、私たちの使いかた如何によっては、生活に欠かせない便利なものにもなる半面、不始末などがあれば、すべてのものを一瞬のうちに灰燼(かいじん)にしてしまう、ということにたとえられるでしょう。
いわば、一時の快楽を飽きることなく求める若者たちは、煩悩の働きがそれだけ旺盛だともいえましょう。その旺盛な煩悩の猛火をそのまま自分の将来の幸福と社会に役立つ有益な火に転換させるところに、正しい宗教と信仰のもつ大きな意義があるのです。

宗教は思考をマヒさせ、人間を無知にするのではないか

宗教を信ずると、その宗教に没頭するあまり冷静な思考能力や批判力、判断力がマヒして、自分なりの理性を持てなくなるのではないか、という危惧をもつ人がいます。
たしかに、なんらの教義をもたない低級な新興宗教をはじめ、数多くの宗教は、たんに忘我の境地や、あきらめることのみを教え、人間の思考能力をマヒさせています。ここに邪な宗教の恐ろしさがあります。
しかし、正しい因果の道理を説く仏教、なかでも法華経の教えにおいては、“聞(もん)思(し)修(しゅう)の三慧(さんね)”といって、仏道を成就するためには正法をよく聞き、思惟し、修行しなければならないと説いてます。日蓮大聖人は、
「行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず」(諸法実相抄・新編668頁)
と教示されるように、正しい教えに則り、修行と研学によって仏法の精神を求めることの大切さを説かれています。
また法華経を持つ者の功徳の姿を示して、
「日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は明鏡に万像を浮かぶるが如く知見するなり。此の明鏡とは法華経なり」(御義口伝・新編1767頁)
と説かれています。すなわち正しい仏法を信ずることによって、生命の本源が活動し、物ごとを正しく知見できるというのです。反対に間違った宗教を信ずる者や正しい仏法を持たない者は迷える心、煩悩の生命から物を見、考えているために、すべてを正しく見ることができないのです。まさに本心を失っているようなものです。
これについて、大聖人は、
「本心と云ふは法華経の信心の事なり。失と申すは謗法の人にすかされて、法華経を捨つる心出来するを云ふなり」(御講聞書・新編1857頁)
とも説かれています。ここでいう本心とは、世間的な迷いの凡智ではなく、本仏本法によってもたらされる仏智であり、人生においてもっとも大切な真実の幸福を確立する仏界の心を指しているのです。
ですから、真実の仏法とは、本心たる智慧の眼を開かせ、正しい人生を歩ませるための英知を、生命の根源から涌現させるものであることを知るべきでしょう。

宗教が社会に評価されるのは福祉活動だけではないか

「福祉」という言葉は、“幸福”の意味ですが、広くいえば宗教の目的とも考えられます。しかし、ここでいう「福祉」は、困窮している人に物を恵み、飢えた人に食を与え、不自由な人の手助けとなり、なぐさめるという、一般的な意味であろうと思います。
たしかに極端な個人主義と利己主義によるぎすぎすした現代にあって、他人の幸せを願い福祉活動に奉仕することはきわめて尊いことであり、さらに広く深く社会に定着させてゆかねばなりません。政治や行政の面からも福祉政策を協力に推進してほしいと願わずにはいられません。
しかし宗教の存在価値や目的が福祉活動への奉仕だけであると考えるのは、大いなる誤解です。なぜならば、宗教とりわけ仏法では、正法によって生老病死の四苦を解決し、成仏という確固不動の安穏な境地に至ることを真実の救済とし、本来の目的としているのに対し、一般的な福祉活動はあくまで表面的一時的な救済措置だからです。
またもし宗教の存在価値が、人々に物を与え、不自由な人の手助けをし、悩める人を慰めるだけで事足りるというならば、仏がこの世界に出現し、苦難と迫害の中で身命を賭して法を説く必要があったのでしょうか。私たちも本尊を礼拝し、修行を積み、教義の研鑽をすることもすべて不要となってしまうではありませんか。
真実の宗教とは正しい法を信仰することによって、生命の根源に光をあて、活力にみちた仏の働きをわきあがらせて、力強い人生を確立することにその目的があるのです。
他人への親切や親への孝養といっても具体的な形態はさまざまです。仏法では人間を深く観達したうえで、孝養に三種ありと次のように説いています。
「孝養に三種あり。衣食を施すを下品とし、父母の意に違わざるを中品とし、功徳を回向するを上品とす」(十王讃歎抄・新定一-69頁)
ここにも、物を与える孝養は下品であり、意にかなうことが中品、仏法によって功徳を回向(自ら修行した果報を他に回し向かわせること)することがもっとも尊いことであり上品であると明かしています。
物を与え、慰労するところの福祉活動が正しく実践され、持続し、実効を生むためにも、原点となる個々の人間に正しい智慧と活力を与える真実の仏法が必要なのです。
言い換えれば、福祉活動をはじめ文化・社会・教育・政治などの各方面における活動、そして人間がなすすべての営みの基盤となり、根底にあって善導し、活力を与えてゆくのが正しい宗教なのです。

現実生活をさげすみ、偽善的態度をとる宗教者がきらいだ

世間の数多い宗教家といわれる人の中には表面はいかにも聖職者らしく、俗界を超越した仙人か生き仏のように振舞い、世俗の人々を見下した態度をとる人がいます。
とくにキリスト教や戒律を重んずる宗教、新興宗教の教祖と称する人にこの傾向が強いようです。
しかし本当にこの世に生きる身で、世間を超越することなどできるわけがありません。それこそ、“霞を食って生きる”ことなどできるわけがないのですから、もし世俗を超越したように振舞ったり、現実生活を蔑む宗教家がいたならば、その人は明らかに偽善者であり、人々を欺いています。
涅槃経には、末代の僧侶について、
「持律に似像(じぞう)して少く経を読誦し飲食を貪嗜(とんし)して其の身を長養し、袈裟を著(ちゃく)すと雖も猶猟師の細めに視て徐(しずか)に行くが如く、猫の鼠を伺うが如し」と説かれています。この意味は、表面は戒律を持ち少々の経を読んでいるが、内心は飲食を貪り、我が身だけを案じていることは、あたかも猟師が獲物をねらって徐行し、猫が鼠を伺っているようなものであるというのです。
また一方においては、表面上のつくろいもなく、はじめから宗教を生活の手段とし、商売人になりきっている宗教家もいます。
この種の人は、自己の修行研学はもちろんのこと民衆救済などまったく眼中にはなく、ただ欲心のみが旺盛な「葬式法事執行業」に堕しているのです。
これらの姿を見れば、宗教家を嫌うのも当然であろうと思います。しかし宗教家の中には堕落しているのもいれば、正法を護持し清潔高邁な人格と慈愛を有する人もいます。一般の在俗の方でも同様に、周囲の信頼と尊敬を集める人とそうでない人がいます。この違いはなにに起因するのでしょうか。
日蓮大聖人は、
「法妙なるが故に人貴(たっと)し、人貴きが故に所尊(たっと)し」(南条殿御返事・新編1569頁)と仰せられ、人の尊卑は受持するところの法の正邪によると説かれています。はじめは正しい心をもった人間でも、信ずるところの法が邪悪であれは、人間性も必ず濁ってしまいます。ですから、もしあなたが偽善的宗教家を忌み嫌うならば、その元凶である邪教悪法を恐れなければならないのです。
結論からいえば、末法という濁悪の現時における真実の本仏は、法華経文底秘沈(もんていひちん)の大法を所持される日蓮大聖人にほかなりません。
大聖人は、
「日蓮は日本国の人々の父母ぞかし、主君ぞかし、明師ぞかし」(一谷入道女房御書・新編830頁)
と仰せられ、日蓮大聖人こそ、すべての人々を慈しみ、守り、教え導く末法の仏であると明かされています。一切衆生を正道に導かんとする大聖人の慈悲の精神は、歴代の法主上人に受け継がれて日蓮正宗に伝えられています。
日蓮正宗は、小乗教のような戒律宗教でもありませんし、聖人君子になるための宗教でもありません。正宗の僧俗(そうぞく)はともに正法たる大御本尊を信受し、行学に励み、真実の平和と福祉社会の実現を目指して日夜精進しているのです。

自己の信念を宗教としている

人は誰でもなんらかの信念を持って生きています。それも人生全般に関わる信念もあれば、人生の部分に対する信念もあります。
たとえば「宵越しの金は持たない」という人もいれば、「無駄遣いはしない」という人もいます。また「少々の熱や咳は働いていれば治る」と信じている人もいれば、「少しでも具合が悪ければ医者に行くに限る」という人もいるというように、ひとりの人間の信念といっても、金銭面・健康面・教育面・職業面などにわたって多種多様です。
しかもそれらの信念は、その時代や環境・年齢などによって変化することも多いのです。
それは人間の心が常に揺れ動くものであり、その心によって生み出される価値観や信念が定まることなく変化するのは当然といえましょう。と同時に私たち凡人の智慧や判断にはおのずから限界があることも当然です。
このような個人的な信念を宗教とする生き方が、はたして正しいのでしょうか。
「宗教」とは、真理を悟り究めた聖者が、人々のために根本の正しい道を説き示して救済することを意味しています。
すなわち、正しい宗教とは法界の真理を悟り究めた仏の教えであり、人生にとって不変の根本原理として、すべての人々を安穏な境界に導くとともに、人間に勇気と希望と活力を与える源泉なのです。
したがって仏の説き示された教えと、個人の不安定な信念とは天地雲泥の異なりがあるわけですし、これを同等に考えることは宗教の意義をまったく理解していないことになります。
個人の信念のみを強調して宗教を否定する人のなかには、「一定の宗教を持つと教義や規則に拘束されて、画一的な人生観や価値観を押しつけられ、人間の個性や自由が奪われるのではないか」と懸念するむきもあるようです。
しかし日蓮正宗の教えは、あたかもさまざまな草木や花をすべて育て養う大地のように、ひとりひとりの個性や信念を超えて、それぞれの人生を開発し、開花させるものであり、けっして画一的な価値観や思想を押しつけるものではありません。
現実に日蓮正宗を信仰する人々は、家庭や職業・年齢・地域などによってそれぞれ異なった信念のもとで生活しておりますし、個性も抑圧されるどころか、信仰に培われて、より健全にのびのびと発揮しつつ社会の中で活躍しています。
また日ごろはそれほど信念について固執したり深く考えているわけでもないのに、こと宗教の議論になると、とたんに取って付けたように「自分は信念を宗教にしている」などと理屈を並べる人もいるようです。
いずれにせよ私たちの能力には限界があり、性格的なくせもあれば欠点もあって、けっして完全ではありません。時には思い違いや人生を狂わせる考えに陥ることもありましょう。
あなたの信念をより正しく充実させ、しかも人生のうえでりっぱに結実させるためには、主体者であるあなた自身が大地のごとき正しい仏法に帰依し、信仰に励むことが絶対に必要なのです。

宗教を持たなくても幸福な人はたくさんいるのではないか

幸福という概念は、人によっていろいろなとらえかたがあるようです。一般には、健康とか、家庭円満とは、金銭的に恵まれているといったように、いわゆる、運がよく幸せなことや、心が満ちたりて楽しい状態にあることを指して幸福というようです。
しかし実際に今、健康に、家庭円満に、そして裕福に見える人たちが、必ずしもそれらに満足して楽しく生活してるとはいえない場合が多いのではないでしょうか。
むしろ、「珍膳も毎日食えば甘からず」とか「欲に頂なし」といわれるように、かえって、恵まれた生活に生ずる特有の倦怠や不平不満、欲望のぶつかりあいによる人間不信や争いなど、さまざまな不幸に苦しんでいるという例も、少なからずあるのです。
まれに、現在の恵まれた生活に満足している人があったとしても、人生の無常からは、どのような人もけっして逃れることはできません。
人生の無常とは、生あるものは死に、若きものは老い、健やかなるものも患うなど、一切のものは生滅し変化して、しばらくも同じ姿を保つことができないとの意味です。
仏典には、カピラ城の太子として、優れた身体を持ち、あらゆる栄華につつまれて暮らしていた釈尊が、そのすべてを捨てて出家し、さまざまな修行のすえ、三十歳の時、菩提樹の下で、ついに人生無常の苦を真に解決する法を悟られたと説かれています。
したがって、この世に人生無常の苦を真に解決して、生滅・変化に惑わされることなく、いかなる幸せをも自在に顕現していく道は、正しい仏法に帰依すること以外にはないのです。
それでもなお、あなたは「宗教をもたなくても幸福な人はたくさんいる」というのでしょうか。
それはまさしく「三重の楼の喩」(百喩経第十)に説かれる「富みて愚の人」と変わるところがありません。そのたとえとは、あるとき、彼は他の富豪の屋敷が立派な三階建てであるのを見て、自分もそれにまさる建物を建てようと思い、すぐさま大工さんを呼んで頼んだのです。
さっそく基礎工事をして、一階を作り始めた大工さんに、不審を感じた愚かな富豪は「私は三階だけがほしいのだ、下の一、二階はいらないのだ」と言い張って、「一階をつくらずに二階はできないし、二階をつくらずに三階はできない」という大工さんの言い分を、最後まで聞かなかったという話です。
正しい宗教を持たない人の幸福は、この愚かな富豪の考えと、同じようなものといっても過言ではありません。
しっかりとした土台の上にある建物は、どのような風にあたっても壊されることがないように、正しい宗教を人生の基礎とし・土台としたときには、いかなる無常の苦しみや不幸という風にも、けっして壊されることのない幸福を築いていけるのです。
このように、人生における確固不動の真の幸福は、正しい宗教を正しく信仰することによってのみ、もたらされるのです。

人生の幸福とは努力以外にない

人生にとって、努力はきわめて大切なものです。なんの努力もせずに、幸せな人生を築けるはずはありません。
しかしながら、努力といっても、ただ自分の思いつきで、がむしゃらに何事にも挑戦さえすればよいというものではありません。
たとえば、これから書道を習おうとするとき、立派な先生について、修練と努力を重ねる人は、着実に進歩することでしょう。
しかし、師を求めず、自分の才能と、自分の信念で努力さえすればよいといって、ただ毎日書きなぐっているだけでは、上達することはできません。このように、その努力をより価値あるものに実らせるためには、よき指導者の正しい教導に従って努力してこそかなうのです。ましてや意義ある人生、幸せな家庭、人生の充実した喜びを持つためには、その基本となる人生についての、最大にして最高の指導者である仏の教導に触れるということが大切です。
私たちは人生の土台となる根もとに、真実の師である仏の教えを持ち、その上に幹となる自分自身の人格と人間性を磨きつつ、努力と精進を重ねる時、はじめて緑したたる大樹へと成長するのです。
日蓮大聖人は、
「蒼蠅(そうよう)驥尾(きび)に附して万里を渡り、碧蘿(へきら)松頭(しょうとう)に懸かりて千尋(せんじん」)を延ぶ」(立正安国論・新編243頁)
と仰せられています。すなわち、青ばえのような小さな虫でも、駿馬(しゅんめ)の尾につくことによって万里を馳せ、つる草も松の大木にかかることによって、天高くのびていくことができるのです。
このように私たちもいかなる道を歩もうとも、正しい信仰を根本として努力を重ねるならば、正法の功力によって福徳の花が咲き、その努力が大きな実を結び、真実の幸せな生涯をまっとうすることができるのです。

道徳さえ守っていれば宗教の必要はない

道徳とは現実の社会に、善良な人間として生きて行くために、みずからを律し、たがいに守るべき社会的な規範をいいます。
したがって社会生活上の正と不正・善と悪などの分別を心得て、みずからの良心にも、社会的な規範にも恥じることのないように生活してゆくことが大切です。
しかし、道徳はあくまでも、現実に生きている人間のいちおうの規範であって、それによって、先祖を救い、みずからの罪障を消滅し、さらには未来の子孫に幸せをもたらすなどという力はありません。つまり道徳は、今世に生きる人々の生活を正し、人間性を高める意味での指針とはなりえても、仏教のように、過去・現在・未来の三世の因果を説かず、三世にわたる一切の人々の救済とはなりえません。
日蓮大聖人は道徳と仏教の関係について、
「王臣を教へて尊卑をさだめ、父母を教へて孝の高きことをしらしめ、師匠を教へて帰依をしらしむ」(開目抄・新編524頁)
と仰せになって、道徳は仏法の先がけとして、その序分の役割をはたすものだと記されています。
昔から人の守るべき道徳の一つとして、「孝養」ということがよくいわれます。自分を生み、今日まで育ててくれた両親に対して、よく仕え、その恩に報いることは大切なことです。しかし、仏法における孝養とは、ただ親の言葉にしたがい、親にものを贈ったり、年老いた両親の面倒をみるということにとどまらず、正法の功徳によって、両親を始めとする一家・一族・一門の人々を、皆ともに救っていくというところにきわまるのです。
したがって仏法では正法による孝養を、「上品の供養」(もっとも勝れた供養)と名づけるのに対し、道徳における一般的な孝養は、いわば「下品の供養」(上・中より下位の供養)にあたるとされています。
大聖人は、
「法華経を信じまいらせし大善は、我が身仏になるのみならず、父母仏になり給ふ。上七代下七代、上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給ふ(中略)『願はくは此の功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん』」(盂蘭盆御書・新編1337頁)
と、正法を行ずる大善こそ、自ら仏の境地に至るのみならず無量生の父母と、無量生の子孫を救う道だと教えられています。
このように正しい信仰をとおして自分を磨き、さらに世の中の人々を教化して、正法の功徳を社会の一切の人々に及ぼし、ともどもに仏道を成就することが、最高最善の生き方となるのです。

無神論ではなぜいけないのか

無神論とは、信仰の対象となる神や仏などの絶対的存在の事実と可能性を否定する考えで、「無信論」と書く場合もあります。無信論といっても、信用とか信頼などの日常生活上の心理作用まで否定するのではなく、あくまでも宗教的な絶対者、あるいは絶対力の存在を認めないということです。
また無神論者の中には、いちおう他人の信仰を認めて、「神や仏は、いると思う人にとって存在するが、いないと思う者に存在しないものだ」と唯心的な主張をする人もいます。
たしかに、ほとんどの宗教で解く神や仏は現実にこの世に出現したこともなく、因果の道理に外れた空想の産物ですから、無神論を唱えることも無理なからぬことかもしれません。
これに関して面白い話があります。あるキリスト教の教会で、全知全能の神について語り終えた牧師に向かって、ひとりの少年が尋ねました。「何でも可能な全知全能の神様は、自分で持ち上げられない石を造れますか」と。牧師は返答に窮して口を閉じてしまったということです。
この話は、現実を離れ空想によって生み出された神が、いかに矛盾にみちたものであるかを、短い中に鋭く指摘しています。
しかし、だからといって無神論が正しいということではありません。無神論者と称する人は、神や仏がまったく存在しないことを立証できるのでしょうか。少なくとも仏教に耳を傾け、仏典を繙いたことがあるでしょうか。
もしあなたが自らの狭小な体験や臆測をもって、無神論を主張するならば、それはあまりにも単純な発想であり、甚だしい無認識の評価であるといわざるをえません。
いま参考までに仏教の概要を説明しますと、仏教は今から三千年ほど前、インドに出現した釈尊によって説かれました。釈尊は当時流行していた超現実的な絶対神を立てる宗教を邪義として排斥し、自らの修行と思索によって悟り究めた法を五十年間にわたって諄々(じゅんじゅん)と説き、その最後に究極の実教たる法華経を宣説されました。その教えは、因果の理法を基底として、法界の真理と人間生命の実相を開示するものであり、衆生が生老病死の四苦を根本的に解決して真実の幸福境界に至ることを目的としたものでした。そして法華経に予証されたとおりに末法の御本仏が日本に日蓮大聖人として出現されたのです。
日蓮大聖人は末法万年の衆生の苦しみをのぞき、幸せを与えるために、心血を注いで多くの教えを遺すとともに、一切衆生成仏の法体として大御本尊を図顕されました。
この大聖人の仏法は、経文に照らし合わせ(文証)、因果律や現実の道理に照らし(理証)、実際に信仰した結果を見ても(現証)、一点の曇りもないもっとも正しい教えであることが立証できるのです。
もしあなたが、仏の悟りや御本尊の功徳力を信じられないというならば、謙虚に仏法の教えを乞い、自ら仏道を求めるべきでありましょう。
日蓮大聖人の仏法が七百年間、厳然と存在し、全世界にわたる多くの人々に生きる力と、喜びを与えていることはまぎれもない事実です。
この事実に目をつぶって、「この世に神や仏などあるはずがない、信じたくない」と無神論に固執するならば、それは、精神異常者のような精神構造というべきです。
大聖人は、無心・無行の者に対して、
「謗と云ふは但口を以て誹り、心を以て謗るのみ謗には非ず。法華経流布の国に生まれて、信ぜず行ぜざるも即ち謗なり」(戒体即身成仏義・新編10頁)
と仰せられ、法華経を信仰しない者は、仏をそしり正法に背く大罪であると、固く戒められているのです。

霊をどのように考えるか

霊というと、すぐ幽霊とか悪霊などを想像し、霊媒・心霊術などが頭に浮かんできますが、はたして霊は存在するのか、また死後の生命はいったいどうなるのか、私たちには興味のあるところです。
人が死んだら肉体は滅びるが、目に見えない霊魂が肉体を抜け出してどこかに存在するといった考え方から、幽霊やたたりなどが恐怖の対象となり、一方では霊が神聖視され、信仰の対象とされてきました。
しかし生命というはかり知れない不可思議な現象は、仏法で説くところの三世にわたる永遠の生命観によってのみ、真に生命の実体を説き明かすことができるのであり、これをたんに唯心論と唯物論に分けたり、個体的存在としての霊魂説に基づいた考えでは、とうていその本質を正しくとらえることはできません。
仏教では三身常住(さんじんじょうじゅう)ということを説きます。三身とは法報応(ほっぽうおう)の三身のことで、これを仏についていえば、法身(ほっしん)とは法界の真理の法そのものであり、報身(ほうしん)とは因行(いんぎょう)を修して仏果を得たところの智慧であり、応身(おうじん)とは衆生の機に応じて出現する身をいいます。たとえ仏が入滅しても、真理の法や仏の智慧は当然のこと、衆生を救うという応身としての力用(はたらき)は常に存在しているのです。これと同様に私たちの生命も境遇(きょうぐう)の差はあっても、三身を備えており永遠に存在するものなのです。
すなわち私たちの死後の生命は大宇宙の生命とともに存在し、縁によってこの世に生じます。そしてその肉体は、過去世の業因(ごういん)をもとに、宇宙の物質をもって形成されています。一生が終り、死に至ったとき、その肉体は分解され、またもとの宇宙の物質へともどります。生命もまた大宇宙の生命と渾然一体(こんぜんいったい)となり、永遠に生死を繰り返すのです。
死後の生命についていえば、大宇宙の生命に冥伏(みょうぶく)した死後の生命は、過去世の業因によって十界(じっかい)のそれぞれの業(ごう)を感じ、苦楽を得ていますが、とくにその苦しみや強い怨念、または過去の執着などは生きている人間に感応(かんのう)し、人によってまれには言葉が聞こえたり、物が見えるといった種々の作用を感ずるのです。普通はこれを霊魂のはたらきと考えているようですが、どこまでも感応によるものなのです。
この感応は、死後の生命だけでなく、生きている人からも故人に影響を与えます。そこで各寺院における塔婆供養などの追善供養が行われるわけです。遺族の強い信心と御本尊の功力(くりき)によって、亡くなった人の生命を成仏させることが追善供養の真の意義であり、それは感応妙の原理によるのです。
以上説明してきたことからも、通常いわれるような特別な霊魂や個体としての幽霊などは実際には存在しません。生といい死といっても一つの生命における変化にすぎないのです。
なお、正宗寺院の追善供養で、「誰それの霊」として回向を行いますが、この場合の霊も死者の霊魂をいうのではなく、死後の生命全体を指しているのです。その他、日蓮大聖人の御書中にも幽霊とか悪霊という言葉が使われていますが、これらは死者の生命を指しての言葉であり、また大聖人の心、生命を指して魂といわれている箇所もあります。
今日、私たちにとって、なによりも大切なことは、正法を信仰し善因(ぜんいん)を積みかさねていくことです。これこそ永遠の幸福を築く最高の方法なのです。

悪霊のたたりはあるのか

私たちの生命は永遠であり、生といい死といっても、それは同じ宇宙法界の生命体の中にあって、一個の生命体として生ずる時と、死して法界に冥伏するときの違いがあるにすぎません。
かつて、人々は不幸や災害があると、それが特別な霊魂(悪霊)によってもたらされたものと信じ、悪霊を恐れるあまり、これを神としてまつり、そのたたりを鎮めようと考えました。
しかし仏法では因果律(いんがりつ)が根底となって一切の人々の救済が説かれております。すなわち、過去の行為が因となって報い(結果)をもたらすのです。悪い因を作れば必ず悪い果報があり、善因には善果があるのですが、つい自分の過去の因を知らずに悪い結果を見ると、それをたたりと考えてしまうのです。
たしかに、死後の生命の状態が、ときには生きている人に感応することもあり、また故人の受けた十界の業果が遺族などになんらかの影響を及ぼすこともありますが、それはあくまでも因果応報(いんがおうほう)によるもので、たたりや呪いとはまったく違うものであることを知るべきです。
その他にも、私たちの意識ではとうてい説明のできない不思議な現象はたくさんあると思いますが、それらのすべてを究めることは凡夫の私たちにはとうてい不可能なことです。
ですからこれらのものをむやみに恐れることはあやまりであり、これらを悪用する低級な宗教や思想に惑わされることは自らの悪業をつくることになるのです。
私たちは、宇宙法界を貫く成仏の一方である大御本尊を信仰することによってのみ、自分自身はもとより、故人の苦しみを消滅し、共々に永遠の幸福を築きあげることができるのです。

霊媒に頼ってよいのか

霊媒(れいばい)は人間と死者の霊を媒介する者で、わが国では青森県恐山(おそれざん)の“いたこ”が有名です。
この“いたこ”は依頼者の求めに応じて神がかりとなり、口寄せによって死者の思いを伝えたり、その心をなぐさめる役割をしているのですが、最愛の人を失った遺族にとって、故人が今なにを考え、どういう状態であるかを知りたいと思うのは、人情として無理なからぬことといえるでしょう。
文明の発達した今日、なお霊媒が存在し口寄せなどが続けられている現実は、死者への思いはいつの時代にあっても変わらないというあかしでもあろうと思われます。
たしかに、故人の声をもう一度聞くことができれば、遺族の気持ちは休まるかも知れませんが、死者の気持ちを知ったところで、その深い苦悩を消し去ることも、悲しみに打ちひしがれた心を真になぐさめることもできないのです。
それはあたかも、釈尊(しゃくそん)の弟子である目連尊者(もくれんそんじゃ)が、小乗の悟りによって得た神通力(じんづうりき)で、餓鬼道におちて苦しむ母親を救おうとしても救うことができなかった故事と同じです。
結局、目連尊者は法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱えたとき、初めて母親を成仏に導くことができたといわれています。
仏教には感応道交(かんのうどうこう)の原理が説かれており、仏と衆生との間に相い通じて感じ応ずる働きがあるといわれます。これを悪用したのが霊媒信仰なのですが、仏の教えを除外して単に迷いの衆生と死者が感応したからといって真の救いになるわけではありませんし、かえって共に苦しむ結果になるのです。
ましてや現在の霊媒や“いたこ”と称する者のほとんどは、それを商売の手段としているだけで、死者と感応する力はないのです。
いずれにせよこのような霊媒は、仏法本来の目的から逸脱した邪道なのですから、頼ってはいけません。

超能力を信ずることは宗教なのか

一般的に超能力とは、普通の人間の五官ではなしえない力を指していいますが、本来十界の生命を備えている人間が、周囲の縁や修練によって、特別な能力を持ったとしても少しも不思議ではありません。仏教では、これら超能力のことを「神通力」あるいは単に「通力」と呼び、これを五通と六通に分けて説明しています。
五通とは、
①自在に移動できる力。
②透視する力。
③普通の人の聞こえない音を聞く力。
④他人の考えを知る力。
⑤自他の過去世の相(すがた)を知る力。
をいい、六通とはこれに煩悩を取り去る力を加えたものを指します。
こうしてみると現代の超能力者の中には、仏教でいう五通の一分を持った者もいるということができましょう。
この通力については、御書にもたびたび出ており、中でも古代インドの外道で、十二年間恒河の水を耳の中にとどめたという阿伽陀仙人(あかだせんにん)や、一日の中に四海の水を飲みほすという耆兎仙人(ぎとせんにん)などが知られていますが、これら外道の仙術は深く宗教と結びつき、幻術といって催眠術を用いて人々の目を眩惑させるものでありました。
現実に通力や超能力をもっている人はいるかもしれませんが、その能力の存在そのものは別に宗教ではありません。しかし、超能力を売り物にした行者とか祈祷師などの教えを信じて、その通力に頼っておうかがいをたてたり、悩みを解決しようとする行為が誤った信仰になるのです。
日蓮大聖人は、「利根と通力とにはよるべからず」(唱法華題目抄・新編二三三)
と仰せになっています。利根とは、鋭利な五根(ごこん)(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根)をそなえることであり、ふつうでは見えないものを見、聞こえない音を聞きとるなどの能力を持つ人をいいます。
通力とは前にのべた五通、六通の特殊な力をいいます。大聖人はこれらの利根や通力には人間の生命を浄化する力はまったくなく、かえって正しい仏法を見失わせ、成仏(じょうぶつ)への障害となるために、これらに頼ることを厳しく禁じられているのです。
ただし、こうした一般の超能力とは違った真の通力について、『法華経寿量品(じゅりょうほん)第十六』には、
「如来秘密神通之力(にょらいひみつじんづうしりき)」
と説かれております。この神通力とは、悪業深重の衆生をも必ず成仏せしめるという、仏のみが持つところの究極の功徳力をいいます。
大聖人は、
「成仏するより外の神通と秘密とは之無きなり。」(御義口伝・新編1766頁)
と仰せです。
末法においては、御本尊を信じ南無妙法蓮華経と一心に唱えることにより、即身成仏が遂げられるのであり、これこそ真実の如来の秘密・神通の力なのです。

念力とはなにか

「念力岩を通す」ということわざがありますが、一般には念力といえば、心をひとつにして願うことによって、他者に対して特別な力を発揮することを指しています。
ひところいかがわしい念者やスプーン曲げが話題になりましたが、心という精神作用がそのまま物質に影響を与える現象は、現代の物質偏重主義の一部の人々に少なからずショックを与えたのかも知れません。しかし念力自体は心のはたらきですから普通の人間でも多少はもっているものですが、だからといって実際に現象を起こせる人がこの世にどれほどいるかといえば、はなはだ疑問です。
こうした超能力ともいうべき念力を用いた話は古くからあり、たとえば山岳宗教の修験者(しゅげんじゃ)が念力によって何百メートルも離れたローソクの火を消したりして、あたかも霊験あらたかのように人々を思いこませる手段としたこともありました。しかしよく考えてみると、このような特殊な、しかも見せ物まがいの念力が、私たちの生活や人生によい影響を与えることはなく、むしろ何ら必要としないものです。
では仏教では念力についてどのように説いているでしょうか。維摩経(ゆいまきょう)などには成仏を目指す修行の障害を対治する力として五力が説かれています。五力とは信力・精進力・念力・定力(じょうりき)・慧力(えりき)をいい、この中の念力とは憶念の力ということです。簡単にいえば、仏の教えや本尊・修行などをしっかり心に記憶して忘れない働きです。
また仏典には、「若し念力堅強(けんきょう)なれば五欲の賊中(ぞくちゅう)に入ると雖も害せれるるところなし」〔遺教経(いきょうぎょう)〕とあり、仏法僧を念ずる力によって、いかなる魔縁(まえん)にあっても紛動されることなく、仏道を成ずることができると説かれているのです。
正しい仏法によって真の幸福を目指す私たちは、迷いの人間による表面的な念力などに惑わされることなく、御本仏日蓮大聖人の教えを心にしっかり持ち、御本尊に日々唱題することが真実の念力であることを知るべきです。

人相・手相などはどのように考えるべきか

人相術や手相術は今から数千年前に、古代インドに発祥したといわれています。
私たちの目に写る姿、形の特徴から過去のできごとや、将来の吉凶を判断するのが人相・手相などの観相術です。
私たち人間の生命は、色心不二(しきしんふに)といって肉体と精神が一体のものですから、心に大きな悩みや心配ごとがあれば、具体的に色法(しきほう)として相にあらわれます。また内蔵などに疾患があればもちろんその特徴が出てきますし、本人の生活信条や性格なども、長い間には姿、形にあらわれてくるものです。
したがって、表面の人相や手相からその人の性格や健康状態を推測することは、それほどむずかしいことではありません。さらにそれをもとにして将来の予想もある程度できるかもしれません。
そのほかにも、過去のできごとなど、およそのことを言い当てる占い師もおりますが、だからといって将来をまちがいなく見ることができるとは限りません。
わらにもすがる気持ちで占い師に見てもらう人にとっては、過去が当たったということですっかり信じ込み、未来の予言をうのみにしてしまうのでしょうが、これは、実にあさはかなことなのです。
日蓮大聖人が、心地観経を引いて、
「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」(開目抄・新編571頁等)
と記されているように、現在はまさしく過去の結果であり、未来は現在の果報が現われるのです。したがって自分の未来を占い師などに問い尋ねて一喜一憂するよりも、現在の自分が将来の幸福のために正しい因行を積んでいるかどうかを考えることがもっとも大切なのです。

家相・墓相について知りたい

ここでいう家相・墓相は家や墓の位置・方角・構造などから、その吉凶や住む人の幸・不幸を占うという意味であろうと思いますが、その因果関係や科学的根拠はまったくありません。まして今日のように住宅事情が思うようにならない状況下で、台所はどの方角に作ってはいけないとか、トイレはどの位置、玄関は何向きといったところで、それらの条件をすべて満たすことなど不可能なことです。
たとえば、南側に道路のある土地に、北向きの玄関の家をつくるようにいわれても、とうていできないことです。むしろこのような現状を無視した考えで家相・墓相をとやかくいうこと自体がおかしなことなのです。
たしかに新しい家を建てる場合、その地形や方角、通気性など、それぞれの生活用途に応じた構造を考えなくてはなりません。しかしこれは設計上当然のことであって、あらためて家相をもちだすまでもありません。
世の中には、占い師が凶相と判断する家や墓地を持った人は、大ぜいいると思いますが、その人たちすべてが不幸になったという話はいまだかつて聞いたことはありません。それよりも占いの言葉を信じたために、かえって不安な毎日を送る場合のほうが多いのです。このような迷信は知る必要もなければ気にする必要もないのです。
仏法には「依正不二(えしょうふに)」ということが説かれています。これは簡単にいうと、正報(中心)となる人間と、それをとり囲み、正報によって影響される依報(環境世界)とが一体だといことです。これは正報たる人間があくまでも中心になるということですから、いかに立派な御殿のような家でも、中に住む人が掃除が嫌いならば汚れた家になるでしょうし、方角が悪いといわれる家でも福徳のある人が住むならば家も安泰となり、正法を持つ人が住む家ならば信心によって常寂光土(じょうじゃっこうど)の家ともなるわけです。
これについて日蓮大聖人は、
「衆生の心けがるれば土(ど)もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土(じょうど)と云ひ穢土(えど)と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり」(一生成仏抄・新編46頁)
と仰せられています。所詮(しょせん)家や墓などは正報たる私たちの心や人格がそのまま反映する依報の一分なのです。
私たちが福徳を身に備え、正法をしっかり護持し、精進するとき、はじめて依正ともに成仏の境界に至るのです。

大安・仏滅・友引などの吉凶は現実にあるのか

カレンダーの日付の欄のところに、大安とか仏滅とかの文字をよく見かけますが、これについてはっきりとした認識をもっている人はきわめてまれでしょう。
これは六曜といって、先勝(せんしょう)・友引(ともびき)・先負(せんぷ)・仏滅・大安・赤口(しゃっく)からなる一種の占いです。
もともと中国で時刻の吉凶占いとして使われていたものが、室町時代の末期、日本に伝えられ、その後次第に手を加えられて、江戸時代中期に現在の形になりました。
それ以来、広く社会に定着し現在では種々の行事を決めるうえで用いられることが多いようです。
たとえば、葬式を友引に行うことは友を引くからといってこれをきらい、婚礼などの祝いごとは仏滅をさけて大安を選ぶというのが一般化された考えとなっています。
しかし友引は本来、先勝と先負の間にあって「相打(あいう)ちともに引きて勝負なし」のよくも悪くもない日の意であって、今日的な意味合(あ)いはまったくなく、単なる語呂合わせにしかすぎませんし、仏滅も物滅(ぶつめつ)からきており、仏教とはなんの関係もないのです。
六曜の決め方は、旧暦の日付を機械的に割り振っただけのきわめて単純なもので、旧暦の一月一日を、先勝、二月一日を友引、三月一日を先負というように、毎月一日(ついたち)を六曜順にあらかじめ配当し、二日からは順送りとして月が終わればそこで切り捨てるという方法なのです。
したがって、旧暦では日付と六曜が毎年同じでしたが、新暦(しんれき)になってからは、新旧のズレによって変化が生じ、人々の興味を引くようになったと思われます。
このように六曜は、旧暦の日付にただ順次割り付けしただけのものですから、これを根拠にして日々に吉凶をつけて占うことはまったくナンセンスなことです。

姓名判断をどう考えたらよいのか

とかく占いというものは、当たった部分だけが誇張され、はずれた場合はあまりこだわらない傾向が強いようです。
なかでも姓名判断はよく当たるという人もいますが、はたしてどうでしょうか。
いくつかあげられた占いのうちひとつでも該当すれば、当たったように錯覚しがちですが、裏を返せばそれ以外は皆はずれているということになります。
ある姓名判断の本には、「漢字そのものには命が込められてあって、人の運命をも作り上げる。そしてその運命は名前がつけられたときからスターとしていく」といっています。
しかし、人の運命が名前をつけられたときにスタートするというのでしたら、名前がつけられる前に死んでしまう子供や、生まれながらにしてすでに不幸な境遇のもとに産まれた子供はどのように解釈したらよいのでしょうか。
また名前によって運命が決定されるならば、同姓同名(どうせいどうめい)の一人が総理大臣になれば、その他の人も同じ地位につくはずですし、反対に一人が不幸な人生を送れば、同姓同名の人も同じようでなければならないはずです。
これについて、さきの本には、「成功、不成功のちがいは、職業の選択や環境(人間関係)によってきまる」と弁明していますが、職業と環境にめぐまれることが成功の条件だというならば至極当然の話にすぎませんし、いまさら姓名判断をまつ必要もないということになります。
これらのことからみても、姓名判断の根拠が実にあいまいであることがわかると思います。
また姓名判断の方法をみると、画数によって占うのが一般的で、字画の数え方も流派によってそれぞれ違うといわれています。
たとえば、くさかんむりの字画は、三画、四画、六画など、かぞえ方はまちまちですし、さんずいも、三画、四画というようにさまざまです。そうしますと、同じ人を占うにしても画数が違えば当然異なった判断が出てきますから、これではいったいどちらを信じればよいのか、これほどいいかげんな占いはないということになってしまうのです。
歌手などがデビューする時に、姓名判断の専門家に依頼して、よい名前を選んで付けるようですが、毎年多くの新人が出ても、スターになる人はほんのわずかで、ほとんどは消え去ってしまいます。この現実は姓名判断がいかにあてにならないか、という見本であろうと思います。
人間の一生は姓名によってきまるものではありません。まして改名によって幸福を得られるものでもないのです。私たちの生命は、三世にわたる因果の理法にもとづいているのです。現在の果報は過去の因によるものであり、未来の果報は現在の因によってもたらされるのであって、私たちが永遠の幸福を求めるのであれば、その正しい因がなければ絶対にかないません。この正しい因こそ妙法であり、御本尊を信受する以外に真の幸福はありえないということなのです。

八卦、星占いなど多くの占いがあるが、どのように考えたらよいのか

人は誰しも未来を知りたいと願い、幸福を得たいと望みますが、そのもっとも手近にある方法が占いであるといえます。
しかしながら占いで将来を正しく見極め、幸福な家庭を築き上げた人が世の中にどれほどいたでしょうか。
努力なしに望みをかなえようとしたり、実力以上のものを無理に求めようとするところに、悲劇や破綻が起こるのであって、占いを信じ安易に自分の人生を賭けてしまうことほど危険なことはありません。
初めは遊び程度のつもりが次第に夢中になり、ついには占いなしでは身動きがとれなくなってしまったという例もあるように、占いを信じたことによってかえって苦悩を増す結果が多く、むしろ占いには近づかない方が賢明であるとさえいえます。
占いは古くは易学(えきがく)による八卦見(はっけみ)が有名ですが、今日ではその他多くの種類があります。たとえば、現在人気のある星占いは、ロマンチックなイメージからか、とくに若い女性の間ではもてはやされているようですが、その主流であるホロスコープ占星術(せんせいじゅつ)の原点ともいうべき「テトラビブロス」の著者は、
「占星術は天文学の応用で、天文学ほど確実性のあるものではけっしてない」とのべています。このように星占いは、学問的に確実性のない占星術を基礎としているのですから、きわめて不完全なものなのです。星占いが広まること自体現代社会の刹那的(せつなてき)な風潮を反映しているように思われます。
星占いをはじめとする占いはすべて運命学が根底となって組み立てられているのですが、基本となる運命学そのものは、学問というにはほど遠く、人間の運命を本人の努力と関係なく、生まれつき定まったものとみる非合理的な運命論から発しているのですから、自然科学が発達すればするほど、その欠陥が明白になってくるでしょう。
明るい未来が幸福な生活は、正しい信仰を根本に自分自身で築くものであり、それは御本尊を信ずる功徳によってはじめて実現できるのです。

守護霊や守護神はいるのか

最近、霊能者や神霊研究家と称する人たちが守護霊などに関する本を書き、そうしたものがベストセラーになったり、マスコミでも取りあげられたりしています。
いま彼らの主張によりますと、人間にはどんな人にもその背後に、守護霊や背後霊が備わっていて、一人ひとりの人間がどのような人生を生きるかを見守り、霊界から助け指導するのだということです。
そうしてこの守護霊をないがしろにしたり感謝を怠ったり、また先祖の浄霊をしないから、我が身や家庭に災いが起こるのだというのです。
しかし我々凡夫には過去世のことや、未来の出来事、また死後の世界のことなどを実体験を通して明らかにすることはできませんし、また見ることもできません。したがって、ついそうした霊能者の言葉にまどわされてしまう人が多いのです。
けれども霊能者や神霊研究家が、どんなに不思議な神霊や霊能の話をしても、それはあくまでも因果の理法を無視した夢想・想像の産物であり、仏法の上からみれば彼らのいうようなその人の運命を支配する守護霊や守護神などというものはまったく存在しないのです。
したがって、実生活における守護の働きについては、委細(いさい)に三世を知る仏の教示を仰ぐべきです。
日蓮大聖人の教えは、久遠元初(くおんがんじょ)以来、末法万年の遠き未来に及ぶ三世の一切を了達(りょうだつ)された本仏の教えであり、一閻浮提第一の智者(ちしゃ)の指南なのです。
その大聖人の教えによりますと、三世十方のありとあらゆる仏、一切の諸天善神(しょてんぜんじん)はすべて久遠元初の本仏の垂迹(すいじゃく)であり、従者(じゅうしゃ)であるといわれています。それゆえに、諸天善神は妙法蓮華経の正法を守り、法華経の行者を守護し、正法に帰依する人々の身の上や生活の上に、社会や国土の上に、正法興隆のために、善神としての働きを垂れるのです。
法華経には、
「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護(えいご)し」(安楽行品第十四・開結396頁)
「能く是の経を持たんを以っての故に諸佛(しょぶつ)皆歓喜して無量の神力を現じたもう」(神力品第二十一・開結515頁)
と説かれています。
私たちはなによりも妙法蓮華経の本門の本尊を信じ、題目を唱え行ずることによって、一切の諸天善神の守護の力をうることができるのです。

水子のたたりはあるのか

最近、「水子(みずご)のたたりを慰める」ためとして、水子供養を売り物にするいわば新種の慰霊(いれい)産業が目だつようになりました。全国の至るところの寺院では、水子地蔵や水子観音なるものが建てられ、易者(えきしゃ)や霊能者たちは、水子のさわりやたたりによって現在の不幸や病気などがあるとおどかしています。また新聞の広告には水子除霊(霊を取り除くこと)のはでな誘いとともに、水子のたたりの例をあげ、いたずらに恐怖心をあっおっているのをみかけます。
これらの宣伝によって作られた水子供養ブームは、ことさら迷える人々に対して、家庭内の不幸や、精神的な不安も「水子の霊を供養すればすべてかたづく」という安易な思想を植えつけ、増大させているように思われます。
水子について考えてみますと、昔、とくに享保・天明・天保などの三大飢饉のときには生活防衛のためにやむなく「間引き」という農業用語が転じて用いられたほど、堕胎(だたい)や嬰児(えいじ)殺しが多かったといわれています。
また中には、優生保護的な意味からやむをえず中絶しなければならなかった場合もありましょう。しかし、現在では生活のためというよりもむしろ、性風俗の乱れや道徳心の欠如からくる人工中絶による水子が多いようです。此のあたりに水子供養ブームの一因(いちいん)があるように思われます。
仏教では人間の生命が胎内で生育する次第を五位に分けて説いています。
一にカララン位〔和合(わごう)「と訳され父母の赤白二*が初めて和合する位〕
二にアブドン位〔皰(ほう)と訳され、二七日を経て瘡疱(そうほう)の形となる位〕
三にヘイシ位〔血肉(けつにく)と訳され、三七日を経て血肉を形成する位〕
四にケンナラ位〔堅肉(けんにく)と訳され、四七日になり肉のかたまる位〕
五にバラシャキャ位〔形位(けいい)と訳され、五七日を経て六根が備わる位〕
そして出生を待つと説かれています。
この説は受胎後、胎児が直ちに生命体として生育を始めることを明かしており、現代医学と近似しているものといえましょう。まさしく胎児は人格とまではいえないまでも、生命ある“ひと”として生きているのです。
そして、十界互具・一念三千の仏法の生命観より見れば、たとえ小さな胎児の生命にも必ず仏性(ぶっしょう)を具し、あらゆる可能性を秘めているのです。ですから「水子のたたり」があるかといえば、そのようなものはありませんが、堕胎という生命軽視の行為はなんらかの罪障(ざいしょう)を作ることになるでしょう。
そのために大事なことは、何よりも正しい仏法を基調とした生命観の確立と、道徳心の向上をはかるといことであり、もし不幸にして水子があった場合は、正しい因果律をふまえた真実の仏法による追善供養と、本人自身の罪障消滅の祈念こそがもっとも肝要なことといえましょう。

厄年はあるのか、厄を防ぐには

世間では、よく四十二歳の厄年だ、三十三歳の大厄(たいやく)だといって心配している人が大ぜいいます。
しかし、日蓮大聖人は、
「三十三のやくは転じて三十三のさいはひとならせ給ふべし。七難即滅(しちなんそくめつ)七福即生(しちふくそくしょう)とは是なり。年はわかうなり、福はかさなり候ベし」(四条金吾殿女房御返事・新編757頁)
と妙法の信徒にとって、厄はけっして恐ろしいものではなく、むしろその時こそ若さを増し、はつらつとして福徳を積むことができるのだということを教えています。
厄という字は、もともとは木の節のことで、木に節があると製材や木工に困るところから転じて、災いや苦しみの意味に用いられるようになったといわれています。
また厄年の年齢区分についていえば、男性の二十五歳、四十二歳、六十一歳は、昔は人間の一生の折り目にあたる年祝(としいわい)の行われた年齢で、青年が壮年組に入り、村人のために諸種の役を得る資格を得、また壮年より老年組に入る節目のことで、けっして忌(い)みきらうことではなかったのです。
また女性の十九歳、三十三歳、三十七歳は、育児や健康の上でも、ひとつの節し目にあたる時期だったようです。
大聖人は、
「やくと申すは譬へばさいにはかど、ますにはすみ、人にはつぎふし、方には四維の如し」(日眼女造立釈迦仏供養事・新編1351頁)
と、さいころの角・升のすみ・人体の関節・方位の四隅などのように、厄とは人生における大事な折り目のことなのだと教示されています。
そうした時期に、単なる四十二歳は「死に」通じるから、三十三歳は「さんざん苦労する」などと語呂合わせをして思い悩むのはまったく馬鹿げたことだといわなくてはなりません。
また、世間の迷妄に紛動されて、邪な神社や寺で厄ばらいなどを頼む人は、大聖人が、
「善を修すると打ち思ひて、又そばの人も善と打ち思ひてある程に、思はざる外に悪道に堕つる事の出で来候なり」(題目弥陀名號勝劣事・新編331頁)
と説かれているように、かえってよけいに災いや魔が競うのです。
大聖人の、
「厄の年災難を払はん秘法には法華経には過ぎず。たのもしきかな、たのもしきかな」(太田左衛門尉御返事・新編1224頁)
との教えどおり、私たちはこの厄年の節目の時こそ、邪心・邪説に惑わされることなく、正しい御本尊のもとにいっそうの信心を奮い起こして、七難即滅・七福即生の、より輝かしい人生を切り開いていくことが必要なのです。

現代の生き仏、生き神と呼ばれる人がいるが、どうとらえるか

現代の新興宗教には、教祖をそのまま神、仏と信じ崇める宗教があります。それらの中で主な宗派としては、天理教の中山みき、大本教(おおもときょう)の出口王仁三郎、世界救世教の岡田茂吉などが挙げられます。これらはすでに亡くなっておりますが、現身になんらかの啓示を受けて特別な能力を得たといい、神がかり状態になったといわれます。
現在も数多くの新興宗教や群小教団の中には、“生き神さま”と称される教祖がいるようです。では、このような生き神、生き仏と称する人は信用できるものなのでしょうか。もしある人が精神異常をきたし、突然自分は神さまだと言い出したならばどうでしょうか。
これについて二つの点から考える必要があると思います。
その第一は、むかし釈尊が出現される以前には、九十五派のバラモンがあり、その中に生き神と同じような教祖も多くおりました。これに対して釈尊は、すべての世界は因果の原理によって構成されており、因果を無視したり、因果を説かない教えは真実のものではない、と破折されました。
日蓮大聖人も、これら外道(げどう)の邪義に対して、
「実に因果を弁へざる事嬰児のごとし」(開目抄・新編526頁)
と仰せられております。
生き仏や生き神と称する人は、いったいかなる因行を修行して神や仏になったのでしょうか。因がなく、ただ果のみが突然あらわれる奇跡などというものは実際には存在しないのです。
ですから、もしある日突然、神がかりとなったとしても、因行が説明できない神や仏ならば信ずべきものではないのです。
第二の点は、生き仏や生き神といわれるものが、はたして真理に体達(たいだつ)した聖人や、経典によって予証されているかどうかということです。御本仏日蓮大聖人は、末法の法華経の行者として現実の五濁の世に出現されて、法華経に説かれた予証を体現(たいげん)されたのです。
これについて大聖人は、
「此等(これら)の文のごときは日蓮この国になくば仏は大妄語の人、阿鼻地獄はいかで脱れ給ふべき](報恩抄・新編1019頁)
と仰せられています。
経文に予証されていない生き仏や生き神といわれるものは、しょせん信用するにたりないものであり、少しばかり人間ばなれをした能力があったとしても、衆生を根本から救うべき正法の導師などではないのです。

血液型による性格判断などをどう考えるべきか

血液型に関する本を読んでみますと、統計的なことを主体としてのべられていますから当を得ているように思われるところもあります。たとえば血液型には本質的に、それぞれの特徴があり、その表れ方によって長所にもなり短所にもなることを示しています。
その意味からいえば、血液型による判断は迷信とか謗法というに当たりませんが、血液型判断をもって人生の根本指針を決定したり、他人の性格や長短を頭から決め込んだりすることは賢明ではありません。
仏法では人生を、因縁すなわち過去の因と助縁(じょえん)そして未来の果という一連の流れの上でとらえています。また、人間もそれぞれ因縁をもって生まれてきます。血液型にしても自らの過去の業を因とし、各々の両親という縁によって決まります。その性格も、血液型だけではなく、育った環境や教育、その人の生きてきた過程などのあらゆる縁によって違ってくるのです。同じ血液型でありながら正反対の性格の人があったりするのはこれらの縁や過去からの業などによるものといえましょう。
また、どのような血液型で生まれてきても、短所を長所に転換し、正しく向上するためにもっとも肝要なのは、生命の根源に作用するところの正しい信仰を持つことなのです。
日蓮大聖人は、
「只今も一念無明(むみょう)の迷心は磨かざる鏡なり。是を磨かば必ず法性真如(ほっしょうしんにょ)の明鏡(めいきょう)と成るべし。深く信心を発こして、日夜朝暮に又懈(おこた)らず磨くべし。何様にしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり](一生成仏抄・新編46頁)
と仰せです、私たちがどのような血液型であれ、またどのような血液型の人とめぐりあったとしても、それによって性格や相性などが決定されるということではなく、正しい仏法によって錬磨し、修行していくことが豊かな人間性と正しい人間関係を築く道なのです。

狐つきなどのつきものをどう考えるか

今日の医学では狐つきや蛇つきなどのつきものを、先天的な異常性格者や精神薄弱者に多く見られるヒステリー性の一種の精神病と判断しています。
しかし実際にはそうした診断だけで説明のつく現象ではないようです。
仏法ではあらゆる生命の本質を十界論でとらえていますが、狐や蛇などのつきものは、まさに人間の生命の上にあらわれた畜生界の姿にほかなりません。
十界とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏の十種の生命の働きをいい、それらはすべて私たちの生命の奥底に冥伏しており、日常のさまざまな縁にふれてあらわれてくるものなのです。
ですから狐つきなども、その人の心身にそなわっている十界中の畜生界の働きが邪な信仰などに誘発されて現われてきたものといえます。
このことは、狐つきが代々稲荷(いなり)などの畜類を本尊とする信仰をしてきた家庭に現われる例が、きわめて多いことからもわかると思います。
つまり信仰の対象とした狐や犬などの畜生界の生命と、私たちの生命に備わっている畜生界が呼応して、いわゆる感応道交(かんのうどうこう)してあらわれた姿がつきものなのです。
感応道交とは本来、衆生の機感と仏の応赴(おうふ)とが相通じて一道に交わることをいうのですが、この働きは広く十界のすべてに通ずるのです。
すなわち正しい仏の教えに従って正しい信仰をつらぬけば、仏界と衆生の十界が感応道交し、しかも衆生の仏性が開発されて、成仏への道が開けますが、狐などの畜類を信仰するならば、その人の心や行動や果報が狐などの畜生界の姿となって現れてくるのです。
したがって狐つきなどで悩んでいる人は、正しい御本尊を信じて唱題し、自らも畜生界などに紛動されない強い意志を持つことが大切なのです。
また、こうしたつきものを落とすのに、他宗の行者や神主(かんぬし)などが、暗示や催眠を利用して祈祷をしたり、「松葉いぶし」などといって、家の中で松葉を燃やし、その煙でつきものをいぶり出す呪法(じゅほう)を用いるようです。
しかしそんなことをしても、その人の心身にきざまれた邪な信仰の汚れを落とすことはできません。
長年の稲荷などの謗法による罪障(ざいしょう)を消滅し、狐つきなどの苦しみから脱却する道は、法華経に、
「我大乗の教えを闡(ひら)いて苦の衆生を度脱せん」(提婆達多品第十二・開結367頁)
と説かれ、日蓮大聖人が、大涅槃経を引かれ
「此の正法を除いて更に救護(くご)すること無し。是の故に応当に正法に還帰(げんき)すべし」(太田入道殿御返事・新編912頁)
と仰せのように、仏の正しい教えである妙法蓮華経による以外にはないのです。

いまさら改宗するのはめんどうだ

「めんどうくさい」といって、怠惰をきめこみ「世間体が悪い」などと、求道の前に、すでにしり込みしてしまうような生き方をしていては、家庭にあっても、職場にあっても、真の職責と使命を果すことはできません。
つまるところ、人生の目的は幸福でありますから、その目的に向って、ひとつひとつ障害となるものを取り除いて前進していくべきです。積雪の中を走る汽車の前進をはばむ雪は払わねばなりません。雪かきがめんどうだといっていては汽車は前に進みません。
日蓮大聖人は、
「汝(なんじ)早く信仰の寸心(すんしん)を改めて速やかに実乗(じつじょう)の一善(いちぜん)に帰せよ」(立正安国論・新編250頁)
と仰せられています。また正しい信仰に対する小さな発心(ほっしん)、ほんのわずかな精進が、あとに大きな力となってあらわれてくることを、
「小事(しょうじ)つもりて大事となる」(衆生心身御書・新編1216頁)
とも教えられています。
「親兄弟がなにか言いやしないか」・「親戚の人が反対しないか」・「上司や友人が軽蔑しないか」・「先祖からの墓地があるので改宗しにくい」などと、取り越し苦労するよりも、今日の小さな発心が、やがて大きな喜びとなり、功徳となって返ってくることを確信してください。その喜びと確信をもって、かえって反対しているそれらの人々をも、正法に導くことができるのです。
まして、今日の民主主義の社会においては、封建時代のように、改宗によって命に及ぶほどの迫害があろうはずもありません。まったくみずからの意志において、正しい信仰に帰依し、実践することができる時代です。信仰の自由を謳歌できる現代は、もう周囲のしがらみや、世間体をはばかって過去からの宗教にとらわれているときではありません。「よき人材となろう」・「幸福になろう」という発心の心とともに、敢然として邪義を捨てて、正法を実践することがなによりも大切です。
大聖人は、
「かなしきかな今度此の経を信ぜざる人々。抑(そもそも)人界(にんがい)に生(しょう)を受くるもの誰か無常を免れん。さあらんに取っては何ぞ後世(ごせ)のつとめをいたさゞらんや」(新池御書・新編1456頁)
と仰せられ、せっかく人間に生まれたからには正しい信仰をもって将来の幸福を築くべきであると教えています。
いたずらに無為(むい)な時間を過ごすことなく意を決し、勇気をもって正法につくことこそが、今、あなたのとるべき道であるといいたいのです。

信仰をすると周囲から奇異な目で見られるのではないか

人は皆生き方が違いますし、宗教に対する認識もそれぞれ異なります。なかには宗教の必要性をまったく認めない人もいれば、宗教をアヘンのように思っている人、宗教を低級なものと思っている人などさまざまです。
今あなたは信仰の必要性を認識したものの、もし日蓮正宗の信仰をすれば、このような人々から奇異な目で見られはしないかと心配しているのでしょう。
しかし周囲の目といっても、宗教の正邪をわきまえない人々の宗教観は当を得たものではなく、無責任きわまりないものです。もしあなたがこれらの人々の言うことに従ったとしても、これらの人々があなたに対して幸せになる道を教えてくれるわけではありません。
欧米では「あなたはなにを信仰していますか」と聞かれた時に、「私は信仰を持っていません」と答えると、かえって周囲からなんの信念も、指針ももっていない人だと軽蔑され、奇異な目で見られるそうです。
また現代は宗教の時代といわれ、世間でも人生を充実させるために宗教の必要性を痛感している心ある人がふえているといわれています。
現代では信仰を持つことが恥ずかしいどころか、むしろ人生を深く考え、より向上しようという心ある行為といえるのです。「周囲の奇異な目」といっても、周囲の人々はそれほど深い意味で批判しているわけでなく、あなたの思いすごしの部分が多いのではないでしょうか。
日蓮大聖人は、
「百千合はせたる薬も口にのまざれば病も愈えず。蔵に宝を持てども開く事を知らずしてかつへ、懐に薬を持ても飲まん事を知らずして死するが如し」(一念三千法門・新編110頁)
と仰せられ、せっかくの薬も宝も用いなければなんの役にも立たないように、正しい信仰をしなければ真の幸福は築かれないと教えられています。
他人の目を気にして至上の宝である正法の信仰を持たず無為に過ごすことは、あなたの人生にとって最大の損失になるのです。
入信当初は、一時心ない人から奇異な目で見られることがあるかもしれませんが、「真実の宗教を信仰して幸せな境涯(きょうがい)を築くのだ」という、強い自覚と信念と誇りをもって信仰に励むならば、周囲の人もやがてはあなたを見直して尊敬の眼差しを向けるようになるでしょう。
大聖人は、
「されば持(たも)たるゝ法だに第一ならば、持つ人随って第一なるべし」(持妙法華問答抄・新編298頁)
と、最高の教えを持つ人は、また最高にすばらしい人だと仰せられています。
どうか、取り越し苦労や弱気をふり払い、勇気をもって真実の門に入り、正々堂々と人生の大道を歩んで下さい。

特定の宗教への入信は人間関係をむずかしくするのではないか

「特定の宗教」とは日蓮正宗を指していると思われます。ひとことで言えば、日蓮正宗に入信することが原因になって人間関係を損ねるということはまったくありません。
もし特定の宗教に入信することが人間関係に支障をきたすというならば、宗教に限らず“特定の学校”に入ったら旧友と仲たがいするのでしょうか。“特定の会社”に入ったら友情にひびが入り、“特定の政党”を支持したら親子の断絶が生ずるとでもいうのでしょうか。
国籍が定まっている人は、“特定の国家”の一員であり、住所が定まっている人は“特定の地域”の住民です。このように国籍や職場・学校、あるいは政党に限らず、私たちは多くの“特定の”社会や集団・組織の一員として生きているのではありませんか。もし国籍も住所も不定であり、所属する職場や学校も定まらず、これといった信念も持っていないならば、その人はまったく信用されないでしょう。
これが宗教となると、特定の信仰を持つことがいけないような錯覚にとらわれるのはなぜなのでしょう。欧米の人々は自分がひとつの信仰を持つことに大きな誇りを感じ、堂々と自分が信じている宗派を披瀝(ひれき)します。ですから信仰を持っていない人間を心に深みとゆとりのない無教養の人として軽蔑するのです。「特定の宗教……」といって、ひとつの信念を持つことを忌みきらうような言い方をするあなたは、たとえば「私には心から尊敬している人がいます」というより、「私は誰をも尊敬しません」と答える方が、格好がよくて人間関係を損ねない利口な方法だと思いますか。
あなたが心配している「人間関係」とは、
①特定の宗教をもつと考え方や意見が食い違ってきらわれるのではないか
②信仰活動によって“つき合い”の時間がなくなるのではないか
③周囲から色メガネで見られたり、異端者としてのレッテルを貼られるのではないか
などの点であろうと思われます。しかし正しい仏法に帰依(きえ)して真実の人生を歩もうとすれば、周囲に一時的な変化があるかもしれませんが、いずれ信仰者の姿や言動を通じて周囲も理解を深め、以前にもましてよりよい人間関係が築かれることを確信すべきです。
実際にあった話ですが、非行グループに入っていた少年がひとつのきっかけで母親の願いを容れて正法を信仰するようになったところ、いつしか悪友たちが遠ざかり、良い友達がふえてその少年は立派に更生した、ということです。
この少年に対して、あなたは「少年が信仰をしたために悪友との人間関係を損ねたことはよくない」とは言わないでしょう。
もし周囲に宗教に無知な人がいるならば、こと宗教に関する意見や考え方にくい違いがあるのは当然ですし、その時は誠意をもって正しい仏法を持つことがどういうことかを教えてあげればよいのです。
日蓮正宗を信仰する人は、信仰によって培われた生命力と快活な人間性を発揮して、正常な人間関係を積極的に作る人々です。現在世界の正宗信徒は信仰以外の分野においても、おのおのの社会、職場そして個々のつながりを大切にして、日夜向上を計って努力しているのです。

日蓮正宗に入信すると結婚や就職がしにくくなるのではないか

人それぞれに好みが違うように、宗教についてよく認識していない人の中には、日蓮正宗をこころよく思わない人もいるでしょう。まして日蓮正宗は正邪のけじめをはっきりさせる教えであり、自らの信仰に励むだけではなく他の人に布教する宗教ですから、時には誤解をする人もいるようです。
しかしこのような人でも、よく聞いてみると、正宗の教義そのものや信仰すること自体をきらっているのではなく、信仰活動にかこつけて家庭を省みなくなったり、職場での仕事がおろそかになる、遅刻欠勤が多くなる、布教によって人間関係が損われる、などの点に対して心よく思わないようです。
日蓮大聖人は、
「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」(檀越某御返事・新編1220頁)
と仰せられ、法華経を持つ者は社会人としての勤めに対しても真剣に取り組まなければならないと戒められています。
この言葉どおり全国・全世界の正宗信徒は立派な社会人・家庭人として襟度をもって日夜努力しています。しかしもし正宗信徒を名乗りながら、信仰にかこつけて社会的に信用を落したり、世間から顰蹙を買うような者がいたならば、実に残念なことといわなければなりません。またこのようなごく一部の姿をもって、正宗を正当に評価できない人も実に不幸なことというべきです。
広い世間のことですから、ごくまれな例としては、それぞれの家風や会社の方針として正宗の信仰を嫌うところもあるかもしれません。また反対に正宗の信仰者を優先的に歓迎するところもあるでしょう。だからといって、そのつど、信仰をしたり、しなかったりすることは愚かなことですし、信仰の意義がわからない証拠でもあります。
正しい信仰とは人生の羅針盤のようなものです。もし船に羅針盤がなければ安全な航行はできませんし、目的地に着くこともできません。
もしあなたが現在結婚や就職という人生の岐路に立っているならば、もっとも大切なことは目先の結婚や就職はゴールではなく、スタートであるという心構えをもつことです。もし希望どおりの結婚や就職ができたとしても、そのあとの長い家庭生活や社会生活の中で、必ず起こるさまざまな問題や困難な壁を雄々しく克服し、着実に幸福に向かって前進するためにはその根本に正しい信仰がなければならないのです。
見栄や体裁ばかりを気遣い、信仰をすると周囲からどんな眼で見られるかと神経質になるよりも、自分の人生になにがもっとも大切かを考えるべきです。そして正しい信仰によって、厳しい苦難に負けない強い生命力と、賢明にして明朗な人格を養うことが真の幸福に到達する道であることを考えるべきでありましょう。

信仰を持つことによって、仕事がおろそかになるのではないか

あなたが心配される点には、次の二つのことが考えられます。
まず第一は、信仰のために時間が奪われ、そのしわ寄せによって仕事がおろそかになるのではないか、ということと、もう一つは、信仰することによって、努力をしなくても棚ぼた式に幸運にめぐまれるものと信じて、仕事をおろそかにするのではないか、ということでしょう。
しかし日蓮正宗の信仰においては、こうした心配はまったく無用です。なぜなら日蓮大聖人の教えは、信仰だけしていれば、仕事をおろそかにしてもよいというような偏狭なものではないからです。
私たちが仕事に励む目的は、自身の生活をより豊かにして、精神的にも物質的にも安定した幸せを得ようとするところにあるといえましょう。しかしそこに築かれた幸せは、恒久的なものとはいえません。なぜなら、たとえ仕事が成功して、経済的に裕福になったとしても、それは表面的な一時の結果であり、前世の善因にもとづく果報ですから、その果報が尽きれば、その福徳もつきるからです。
したがってその幸せを恒久的なものにするために、正しい信心が必要なのです。正しい信仰による果報は、今生の幸せはもとより、未来世への福徳を無限に積んで、永久に崩れない幸福となるのです。
大聖人の仏法に「世法即仏法(せほうそくぶっぽう)」という原理があります。これを広く社会全体の立場から見れば、「社会即仏法」ということになりましょうし、個人の立場から見るならば「信心即生活」ということになります。
この原理は、仏法が私たちの現実の生活を離れてあるのではなく、むしろ生活そのもののなかにあるということを示したものなのです。
大聖人は、
「まことのみちは世間の事法にて候。(中略)やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候」(白米一俵御書・新編1545頁)
と仰せです。これは、現実社会のあらゆる現象と仏法は一体であり、私たちの生活のなかに仏法の真理があらわされていることを教えられているのです。
現実の社会は、「政治」や「経済」によって動いているといっても、それを動かす主体は人間にほかなりません。
ゆえに大聖人は、妙法を受持し、純真に信仰を貫く人は、社会のあらゆる現象の実相を見極めていけることを、「天晴れぬれば地明らかなり、法華を識る者は世法を得べきか」(観心本尊抄・新編662頁)と教えられています。
「法華を識る」とは、正しい信仰によって、生命の永遠と、諸法の実相を見極める智慧を備えることであり、「世法を得べきか」とは、その智慧をもって仕事に励み、ひいては社会に対しても存分にその力を顕現し、充分に生かしきってゆくことができるという意味です。
ゆえに信仰と生活(仕事)の関係は、信仰は大地のようなものであり、生活はその大地に生える草木ともいえます。
大地が肥沃であればあるほど、草木が大きく生長するように、正し信仰を持つことによって、りっぱな見識と、洞察力を備えることができるのです。
こうした原理を踏まえた信仰をするのですから、時間はより有効に使われ、仕事もいっそう充実していくのです。
信仰を持つことによって、仕事がおろそかになるようなことは、絶対ありえないことを知ってもらいたいと思います。

信仰をするといろいろな制約があって遊べなくなるのではないか

宗教のなかには戒律を定めて、教義的な制約をしているものが少なくありません。特にキリスト教やイスラム教・ヒンズー教などは、結婚や食物さらに医療に関することまで、細かく制約されています。仏教でも小乗仏教といわれるものには二百五十戒・五百戒などの戒律が定められています。
しかし人間の煩悩は八万四千ともいわれており、これらのすべてを戒律によって規制することは不可能なことです。
日蓮大聖人は、
「されば三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成り給ひしなり。三世の諸仏の出世の本懐(ほんがい)、一切衆生皆成仏道(かいじょうぶつどう)の妙法と云ふは是なり」(法華初心成仏抄・新編1321頁)
と仰せられ、戒律や智慧によって成仏するのではなく、根本の一法である南無妙法蓮華経を信じ唱えることによって成仏すると教えられています。
したがって日蓮正宗の信仰には、教義的な制約や戒律などはまったくありません。ただし、人間を不幸に陥れる邪宗教を信ずることや謗法に与同することは固く禁じています。
次に信仰活動による時間的な制約については、大きくいえば人間は誰でも一日を二十四時間という枠の中に制約されて生活しているわけですし、ひとつの社会や組織に属すれば、それなりの規則があり、時間や行動の面で制約があるのは当然のことです。まして正しい人生を歩み将来にわたってくずれることのない幸福を築くための仏道修行、すなわち信心活動には相応の努力と時間が必要です。日蓮正宗の信仰をする場合、少なくとも御本尊への朝夕のお給仕(仏壇の清掃・お水や樒などを供える)と読経唱題の勤行をしなければなりません。そして大聖人が、
「月々日々につより給へ」(聖人御難事・新編1397頁)
と教えられているように、幸福の源である信心を清浄に持続するのみならず、さらに行学を錬磨してゆかなければなりません。そのためには家庭での勤行唱題とともに、寺院への参詣、学習会や座談会への参加などによって信心の向上を計る必要があります。これは、なんの修行も必要としない宗教に比べると、面倒なことのように思われるかもしれませんが、現実的に考えると、自ら読経唱題し、行学を錬磨するからこそ、その人に本当の信仰心がはぐくまれるわけですし、信心と行学の修行をともなうからこそ生きた真実の宗教であるといえるのです。
だからといって仕事や家庭が犠牲になるというわけではありません。その人その人の生活のリズムに合わせて持続することが大切です。ここで大切なことは、“規則や教義によって自分は制約されて窮屈だ”と受けとめるか、あるいは“規則を守り教えによってこそ自分は正しく向上できるのだ”と受けとめるかということです。このちがいは物事に対していかに積極的にとりくむかという姿勢と心によって生ずるものといえましょう。
正しい信仰は豊かな人間性と力強い生命力、そして深い智慧を培うものでありますから、日蓮正宗を信仰する人はおのずと仕事や家庭に対しても適確な判断と積極的な姿勢を持つようになり、信仰活動も歓喜の心をもって実践できるようになるのです。
「信仰をすると遊べなくなるからいやだ」という人は、「学校ではテレビやマンガを自由にみせてくれないから行きたくない」と駄駄をこねている子供と同じ理屈です。
信仰をしている人でも、趣味を楽しみ、レジャーを楽しむことは一般人となんら変わりません。ある人は「いままで自分が職場と家庭のことで窮窮としていたのは、自分の生命力が衰えていたためであったと、信心をはじめてから気付いた」と言います。
またある人は「遊びや道楽も、信仰をするようになってから自然に不健康な堕落させるものから、健康的な人生を向上させるものに変わった」と言い、ある人は「いままでは憂さばらしのために遊びに逃避していたが、信心によって仕事に希望が生まれ、家庭が円満になった今は、充実した気分で本当の意味の余暇を楽しむようになった」とも言っています。このような体験は日蓮正宗の信者が一様に味わっている一例にすぎません。
どうかあなたも日蓮正宗の信仰によって悠悠たる境界を築き、職場と家庭とそして余暇を楽しみ生かす人生を送ってください。

信仰は個人的にするものだから、組織に入らなくともよいのではないか

人間は誰でもきゅうくつな思いをしたり、束縛されることを好みません。できることなら毎日の生活を、他人から干渉されず、気がねすることなく、好き勝手に過ごしてみたいと思うでしょう。言い換えれば、誰でも組織的な集団にくみ込まれて種々の制約を受けることをきらうのです。
組織は共通の目的をもった複数の人間、または機能によって構成されています。
無人島で一人で生きなければならなかったロビンソン・クルーソーの例を出すまでもなく、私たちは社会から離れてひとりで生きていくことはきわめて困難なことです。
人間社会はお互いによりよい生活を享受することを目的にして、それぞれの立場で能力に応じた役割を分担し、社会に寄与することによって営まれているのです。
大きくいえば、社会全体が総合的な機構を持った組織体であり、この社会を国という単位で見れば、よりいっそう組織的な意味が強くなるといえましょう。
この人間社会あるいは国家の組織を守り、かつ円滑に運営するために、規則や法律が存在します。
これがさらにきめ細い共同目的をもった組織体として、学校や会社、組合などがあります。その組織に属する人は、それぞれの役割をもち、目的のために力を尽すとともに、その組織によって身を守り、生活の向上を計るなどの恩恵を受けるわけです。
このように私たちは生きている限り幾種類もの大小さまざまな組織の構成員となっているのです。
同じ組織といっても、その目的に応じて、その機構も、制約も、参加の形態も、そして恩恵も大いに異ります。たとえば現在自分の職業に直接関係する組織と、小学校時代の同窓会の組織では、私たち個人を規制する度合いも当然違ってきます。
私たちは自分の人生に大きな影響を与えるものであればあるほど、方向を誤ることなく、より実効をもたらすために組織が必要なのです。
もし、ある学校で、生徒が登校するのも欠席するのも自由であり、校規校則もなく、成績にかかわらず全員を卒業させたら、ほんとうの学力を養うことができるでしょうか。それこそこのような学校や生徒はいいかげんなものだという評価しか下されないでしょう。このことは信仰の道についても同様です。個人的な気休め程度の宗教やはっきりした目標のない教えならば、自分勝手でよいかもしれませんが、人間としての最高の境涯である成仏を遂げるには組織の必要性を認識しなくてはなりません。仏教では人間を正道に導き向上させる働きを善知識といいます。
伝教大師は、仏道修行を志す者の善知識として、一に教授の善知識、二に同行の善知識、三に外護の善知識の三種を挙げています。教授の善知識とは深遠な仏法を教え導いてくれる師範や先輩を指します。第二の同行の善知識とはたがいに励まし、助け合いながら信仰する同僚や友人であり、第三の外護の善知識とは有形無形に私たちの信仰を助け、協力してくれる人たちのことです。
これらの善知識があってはじめて私たちは正しく信仰の道を歩むことができます。またこの善知識の働きをより効果的に発揮するために作られたものが信仰上の組織なのです。したがって真の幸福を築くためには、善知識である信仰組織のなかで、人間性と信仰を磨き、培わなければならないのです。
心が弱く、自己本位の人は人間関係を忌みきらって組織から遠ざかろうとするでしょうが、真剣に自己の向上と鍛錬を願う人は、人間関係や組織を修行の場として有効に生かすべきです。

手を合わせて拝むことは恥ずかしい

手を合わせて拝むことが恥ずかしいというその心の底には、信仰は年寄りくさいとか、弱い人間が行うものなどの宗教に対する偏見があるのではないでしょうか。いずれにしても“恥ずかしい”ということは、世間の目が気になる、周囲の人たちから変な目で見られないかという懸念があるからでしょう。しかし、自分でよいと思えば、たとえ変った服装で街を歩いたとしても、別に恥ずかしいなどとは思わないものです。人間にとって最高の幸福をもたらす正しい信仰には必ず合掌がともないます。ですから合掌が恥ずかしいというのは、医者から薬をもらっても、人に見られたら恥ずかしいといって薬を飲まずに病気を悪化させるようなものです。
病気を治そうと思えば、つまらない見栄を捨て薬を服するのが当然でしょう。それと同じように、日蓮正宗が自分の人生にとってもっとも大切であり、絶対に正しいと確信するならば、合掌が恥かしいなどとは感じなくなるはずです。
合掌は荘厳な仏前で、もっとも尊い御本尊に向かって清浄な心で行うものであり、その十指は十界互具を意味し、胸にあてるところは、我が胸中の心性の白蓮華を生じ、そして南無妙法蓮華経と唱えるところは無作三身・事行の一念三千の当体であるという深い意義を備えているのです。
このことを日蓮大聖人は、
「合掌とは法華経の異名なり。向仏とは法華経に値ひ奉るを云ふなり」(御義口伝・新編1734頁)と仰せられ、真実の合掌は最高の教えである妙法蓮華経に帰依する姿であると説かれています。
ですから人間として真に幸福を願うならば、自分の小さな感情にとらわれず、また、つまらない世間の目を気にせず、真実最高の日蓮大聖人の仏法に目を開き、正直な心で手を合わせ、御本尊を拝むべきです。
人間にとって恥ずかしい行為というのは、人の道を踏みはずしたり、法を犯したり、他人に迷惑をかける行為をいうのです。
宗教に対する知識を深め、自己の幸福はもちろんのこと、社会に平和をもたらす崇高な教えを正しく信仰するということは、恥かしいどころか、人間としてもっとも誇るべき行為なのです。

仏教の法話は現実離れしたおとぎ話ではないか

私たちは自分の幸不幸を目先の現実によって評価しがちですが、真実の幸福とは自己の生命に内在する仏の生命の涌現によって、現実の人生や生活の中にその力を発揮させることです。
そのためには、仏が悟られた真実の教法に帰依し、仏の御意に叶った信心修行に邁進しなければなりません。
しかし私たちにとって、仏が長い間修行されて悟られた法の内容や功徳力はもちろんのこと、人間生命の実体や成仏の境界などは、あまりにも深遠すぎてとうてい理解できるものではありません。
だからといって、仏法は難解だからかかわりたくないと遠ざかるならば真の幸福も安心立命の人生も築くことはできません。ここに仏の化導のための手段が必要になるのです。
釈尊は、
「吾成仏してより已来、種々の因縁、種々の譬喩(ひゆ)をもって廣く言教を演べ、無数の方便をもって衆生を引導して」(方便品第二・開結89頁)
と説いています。すなわち仏は自ら悟った甚深の法を、人々に説くに当って、さまざまな因縁(原因・助縁)、あるいは譬喩(たとえ)を説き、さらには多くの方便(手段)を用いて導くというのです。
天台大師も、仏が譬喩を説くことについて、
「樹を動かして風を訓え、扇を挙げて月を喩す」(御義口伝・新編1733頁)
と記しています。この意味は、風そのものを見ることはできないが、樹が揺ぐことによってその存在を知ることができ、天の月に気付かない人には、身近な扇を高くかざすことによって天月を気付かせることができるということです。これと同じように仏も衆生に対して、身近な言葉を用い、因縁や譬えなどさまざまな手段をもって正法を説き明かされているのです。
あなたがもし、仏典の因縁や譬喩の部分だけをとり挙げて、「現実離れだ」「子供だましのお伽話だ」と非難するならば、それは仏の真意を知らない浅薄な言動といえましょう。
仏典を開き、法話を聞くときは、表面の言葉だけにとらわれることなく、それによって示される仏の真意に留意し、耳を傾けるべきです。

宗教の世界は、科学的根拠や証明があいまいではないか

「科学的」とはいったいなんでしょう。ふつう科学とは、物事や現象について、その性質・変化・他との関係などを実験を通して、体系化し、応用を考える学問のことです。
この科学の基本となる道理が因果律です。すなわち一定の物事(因)が一定の条件と作用(縁)によって、一定の結果を生ずること、たとえば酸素と水素を一定条件のもとで化合すれば、誰がいつどこで行っても、かならず水を生ずるようなものです。この普遍的な因果律が「科学的」という言葉の意味だと思います。
さてこの原則をもって現在の多様化した宗団・宗派を見ると、質問のような“あいまい”な、しかも一見してインチキとわかるような宗教がたくさんあります。なかには教祖が発狂状態になったことを、神が宿ったと称して支離滅裂な言葉を神のお告げとして崇めるものや、祭壇に供えた水は霊験があるといって病状を無視して多量の水を飲ませるもの、あるいは煙に触れるだけで無病息災になると説く宗教など、道理にかなった教義がまったくない宗教や迷信としかいいようのない宗教も数多くあります。
このようないかがわしい宗教を別として、文証・理証・現証に照らして正当な宗教についていえば、我々がある事実(宗教)を科学的な眼をもって研究することは大切なことですが、現在の科学的知識で計れないからという理由で、現実の事象を否定したり、“非科学的”と決めつけることは、それこそ“非科学的”な態度というべきでしょう。
近代の科学は物質文明の中で発達し、多大の貢献をしてきましたが、精神文明ことに人間の心に関してはまったく手つかずの状態です。
にもかかわらず、仏が人間生命の本質と法界の真理を深く観達して説かれた仏法を、人智の集積ともいうべき現代の科学をもって証明しようというのは無理な話です。
それはあたかも、尺とり虫が自分の歩幅と歩数で、空を飛ぶ鳥の飛距離を計ろうとしているのに似ています。
もしどうしても、日蓮大聖人の仏法を道理と現証という科学的説明によって論証せよというのならば、釈尊の予証のとおり現実の濁世(じょくせ)に出現された日蓮大聖人が、予証どおり大難に遭いながら一切衆生を成仏せしめんと大慈悲をもって、大御本尊を図顕建立(ずけんこんりゅう)された事実、そしてそれを信ずる多くの人々が大聖人のお言葉どおり、歓喜と希望に満ちた人生を歩んでいるという実証こそ、“科学的”現実そのものではありませんか。
将来、科学が仏法をどこまで証明できるかわかりませんが、人間を生命の根本から蘇生させ、豊かな生命力を涌現させる仏法が、七百年間富士大石寺に厳然と伝えられ、未来永劫(みらいえいごう)にわたって全世界の民衆を救済得道せんと威光(いこう)をもって照らされている事実を知るべきでしょう。

宗教は教団の金もうけにすぎないのではないか

ご指摘のとおり昨今の宗教界の乱脈ぶりは目を覆うばかりです。ほとんどの教団は、民衆救済と社会平和の実現という宗教本来の使命を忘れ、本尊や書籍、守り札、祈祷などを売りものにして、金儲けに専念している現状です。
ひどい教団になると、教義がらみで信者にお金を出すよう強制します。たとえば目を患っている人に対して、「目の玉は丸いでしょう。目の因縁を切るために、丸いもの(お金)を供えなさい」、また足の悪い人には「足は“おあし”(お金)に通じるから、お金を上げればよくなります」などとまったく人をばかにした“ごろ合せ”や“こじつけ”で無知な人を騙しています。もっと悪質なものになると、「欲心があなたを不幸にしているのだから、欲心を棄てなさい。そのためにはあなたの財産を神さまに捧げることです」などと言葉巧みに、全財産を教団にまき上げられた例もあります。
こんな宗教は明らかに金儲けを目的としたものですから、近づかないほうが無難です。
では、宗教団体が資金を持つことは悪いことなのかというと、それも誤った考えです。教義を研鑽し、修行し、布教するためには、それを賄う資金がなければなりません。
仏典には、菩薩の修行として貧者に物を与える布施行が説かれておりますし、衆生が仏や法に対して、報恩の念をもって金品を供養することを、積功累徳(しゃっくるいとく)の行いであると賞賛しています。供養とは自分にとって大切な宝を仏様に捧げることであり、これには蔵の財・身の財・心の財の三種がありますが、大聖人は、
「蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり」(崇峻天皇御書・新編1173頁)と仰せられ、信心という心の財を根本にすることを教えています。
「日蓮正宗の信心はまったくお金がかからないのか」という声を聞きますが、常識的に考えても、信仰するためには数珠や経本、仏具、書籍などの費用は必要です。また御本尊に対する自発的な供養や先祖回向の塔婆供養なども、信仰者として当然なされるべきでしょう。
しかし、日蓮正宗では本山はじめ各地の末寺でも、賽銭箱などはいっさいありませんし、他宗徒からの供養は仏の本意に叶わないとして、まったく受け取らないのです。また葬儀、法事などにおいても、“お経料”とか“戒名料”もありませんし、他宗のように供養の額を定めて請求することなどもありません。
日蓮正宗はひたすら正法を純粋に守り、弘教し、真の幸福と世界平和の確立を目指して実践している唯一の宗団なのです。

自分の宗派だけを正しいと主張することは「エゴ」ではないか

「エゴ」とは「エゴイズム」の略語で、利己主義という意味です。どの宗派もそれぞれ自宗の教えこそ正当であり、利益があると主張します。たとえば念仏宗では捨閉閣抛(しゃへいかくほう)といって他経を捨てよ閉じよと教えますし、禅宗では教外別伝(きょうげべつでん)といって釈尊の正意は文字で表されるものではなく、以心伝心で自宗のみに伝えられてると主張します。
宗教の歴史を見ても、キリスト教やイスラム教はいまだに異教徒との闘争にあけくれています。これらのすべては自らの優越性を誇示するところに端を発しています。このように見ると宗教の世界は「エゴ」の集まりと考えられるのも当然でしょう。だからといって自己の正当性を主張することが悪いということではありません。
たしかに、周囲を無視し、道理や現証を無視していたずらに自己の優越性のみを主張することは独断であり、悪しきエゴの宗教というべきです。したがって、真実に人間を救う教えであるか否かを合理的に検討し、その上で、“悪しきエゴ”の宗教か、正しい宗教かを決定すればよいわけです。少なくとも表面のみを見て、“宗教はすべてエゴだ”と速断して宗教全体を否定することは、決して賢明な態度ではありません。
難解な宗教教義を判定するひとつの規準として、原因があって結果が生じるというあたりまえの因果律に立脚しているかどうかということがあります。たとえばキリスト教では人間の起源は神が土の塵から造り出したものだといいますが、その神は誰によって作られたかという点は説いておりません。神道でも日本の国は神によって作られたと説きますが、天上の神の起源については何の説明もありません。仏教においてはじめて“三世にわたる因果律”を根本とする人間生命の真実相が説き示されたのです。人間が帰命依止する宗教が不完全なまま民衆に信仰と尊崇を呼びかけることこそ“悪しきエゴ”というべきです。
仏教のなかにおいても、釈尊が当時の人々に対して、低い教えから高い教え、浅いものから深いものへと、次第に説き示しながら機根(衆生の性格と心)を調養し、最後にもっとも完全で功徳力のある法華経を出世の本懐(目的)として説き顕わしたのです。
これを釈尊自身も法華経のなかで、
「私が今まで説いてきた経典は数え切れないほどである。過去に既に説いたもの(已説)、今説いたもの(今説)、将来説くであろうもの(当説)、それらの中でこの法華経がもっとも深い教えである」(法師品第十・開結三二五取意)
と、法華経がもっとも勝れたものであることを主張しています。
日蓮正宗では、正法によって衆生救済を願われた日蓮大聖人の精神を受けつぎ、普遍的な宗教批判の原理に照らして、正を正とし、邪を邪なりと主張しているのです。

世界平和を説く宗教が他の宗教を攻撃して争うことは自語相違ではないか

平和といえばその反対が戦争であることは誰にでもすぐ思い浮かぶでしょう。
戦争とはいうまでもなく国と国が武力をもって争うことです。これを縮小した形が人と人の争いです。人どうしが争う原因を考えてみますと、まず自分の利益や欲望(エゴ)のみを充たそうするときに起きます。これを仏法では貪欲(とんよく)といいます。次に感情的な忿怒による場合があります。これを瞋恚(しんに)といいます。また相手をよく理解しなかったり、考えが浅いために争いとなることもあります。これを愚癡(ぐち)といいます。その外に高慢心や猜疑心が争いのもとになることもあります。
国家間の戦争も個人と同じように人間が本来生命に具有している貪瞋痴(とんじんち)の三毒、あるいは慢疑を加えた五悪心の作用に起因します。しかも仏法の上から現代という時代をみると、今は末法といって、劫濁(時代・社会そのものの乱れ)、煩悩濁(苦しみの原因となる貪瞋痴などの迷い)、衆生濁(人間の心身両面にわたる汚れ)、見濁(思想の狂いや迷乱)、命濁(生命自体の濁りや・短命)の五濁が強大となって、いたるところで争乱や殺りくが絶えまなく行われる時(闘諍堅固)と予言されています。
たしかに人命軽視や刹那的欲望による犯罪、そして自己中心の風潮は現代社会の病巣として深刻な問題となっています。これらの社会問題が貪瞋痴の三毒という単に理性のみで解決できない生命の奥深い迷いから起っているわけですから表面的な道徳教育や、倫理の訓話などで解決できるほど単純なものではありません。現に人殺しはいけない、暴力はいけない、親不孝はいけないと誰でも知っています。それでもなおかつこれらを犯してしまう事実は、もはや知識や教育の次元を越えて、人間生命の奥底から揺り動かす真実にして力のある仏法によらねばならないことを物語っています。国家間にあっても、一時的に争いが止み、戦火が鎮まっているといっても、それのみをもって真実の平和とはいえません。なぜならばおたがいに三毒強盛の人間が動かしている国政、軍事であれば、いつまた火を吹き、殺し合うかもしれないからです。
質問のように戦争と破邪顕正(はじゃけんしょう)の折伏とを同一視して自語相違だといわれるのは、戦争を表面の争いという点だけを見て、その原因の三毒を知らないために生じたものでありましょう。真実の平和を確立するためには三毒強盛の人間性と五濁の世相を正し、仏法によって浄化し、一切衆生悉有仏性(誰人も仏になる可能性をもった尊い存在ということ)自利利他(自分も他人もともに幸せになること)の精神を共通の根本理念にしなければなりません。そのためには宗教の正邪・高低・真偽を厳格に区別し、選択しなければなりません。
私たちの布教は決して争いを起こそうとしているのではなく、誤った宗教はあなたの人生を不幸にしますよと教えているのです。また折伏とは相手の人間を攻撃するのではなく、あくまでも邪悪な宗教や低級な思想を平和を破壊するものとして指摘し論破するものなのです。あなたの質問は、たとえば世界平和を実現するための会議で各国代表が部分部分で意見の食い違いがあったといって、それのみをとり上げて、自語相違だ無益だと非難しているようなものです。
本来の折伏は民衆救済と世界平和という大目的のための破邪顕正であることを知るべきです。

南無妙法蓮華経と唱えるなら、どれも同じではないか

「南無妙法蓮華経」を表面的に解釈すれば妙法蓮華経すなわち法華経に帰依(南無)するという意味です。
日蓮正宗以外の日蓮宗各派では、本仏といえば釈尊であり、究極の経典は釈尊の法華経であると立てておりますから、南無妙法蓮華経の意味も、「釈尊が説いた法華経二十八品の経典に帰依する」ということになります。
しかし日蓮大聖人は、
「今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(三大秘法禀承事・新編1594頁)
と仰せられ、大聖人が建長五年四月二十八日に唱え出された南無妙法蓮華経は、いまだ誰も唱えなかったものであると説かれています。
さらに大聖人は、
「仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(経王殿御返事・新編685頁)とも、
「彼は脱、此は種なり。彼は一品二半(いっぽんにはん)、此は但題目の五字なり」(観心本尊抄・新編656頁)
とも仰せられるように、この南無妙法蓮華経は釈尊の法華経とは異ったものであると示されています。
では南無妙法蓮華経のほんとうの意味はなにかというと、
「無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり」(御義口伝・新編1765頁)
と説かれています。すなわち無作三身(宇宙法界を我身・我体として悟られた根本の仏)とは法華経の行者のことであり、その仏名を南無妙法蓮華経と称するのであるというのです。ここでいう法華経の行者とは日蓮大聖人にほかなりません。これについて、さらに、
「本尊とは法華経の行者の一身(いっしん)の当体なり」(御義口伝・新編1773頁)
と仰せられており、法華経の行者の当体こそ一切衆生を済度する本門の本尊であると示されています。
したがって南無妙法蓮華経とは本門の本尊のことであり、法華経の行者日蓮大聖人の当体なのです。大聖人は、
「本尊とは勝れたるを用ふべし」(本尊問答抄・新編1275頁)
と私たちに本尊の大切さを教えられています。
いかにお題目がありがたいといっても、日蓮宗各派のように、釈尊像を拝んだり、竜神や大黒天あるいは稲荷に向かったり、さらには霊友会や立正佼成会のように死者の戒名に向かって題目を唱えることは、本尊と題目がまったくちぐはぐなものとなり、大聖人の教えに背く悪業を作ることになります。
人でも自分と違った名前をいくら呼ばれても返事をしないどころか、かえって非礼にあたると同じ理屈です。
せっかく日蓮大聖人を崇め、南無妙法蓮華経の題目を唱えるのですから、大聖人の御真意に叶った正しい御本尊に向って唱題すべきです。

日蓮聖人の史跡をめぐり参拝をしているから充分だ

日蓮大聖人は、
「日蓮を用ひぬるともあしくうやまはヾ国亡ぶべし」(種々御振舞御書・新編1066頁)
と仰せられています。
この言葉の意味は、日蓮を尊敬し崇めても、正しく敬まわなければ国が亡ぶ、というのです。
一家が悪(あ)しく敬まえば、一家が亡び、個人が正しく敬まわなければ個人が亡ぶという道理です。
では日蓮大聖人を正しく敬うとはどういうことでしょうか。
御書には、
「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」(開目抄・新編577頁)とも、
「今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも、南無計(ばか)りにてやあらんずらん。ふびんふびん」(撰時抄・新編867頁)
とも記され、自ら末法の一切衆生の主師親(しゅししん)であり人々が日蓮大聖人に帰依し、「南無日蓮大聖人」と礼拝すべきことを説かれています。
そして、
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御義口伝・新編1773頁)
とも、
「此の曼茶羅(まんだら)能く能く信じさせ給ふべし。(中略)日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(経王殿御返事・685頁)
とも仰せられ、末法の教主日蓮大聖人の当体・魂魄のすべてを書き留められた曼荼羅御本尊を信じ拝するよう教えられています。
曼荼羅のなかでも、弘安二年十月十二日に図顕された一閻浮提総与の大曼荼羅が根本中の根本たる本門戒壇の御本尊なのです。
また大聖人は、
「檀戒等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを、一念信解(いちねんしんげ)初随喜の気分と為すなり。是則ち此の経の本意なり」(四信五品抄・新編1113頁)
と仰せられているように、末法の仏道修行は布施や戒律などの修行を捨てて、ひたすら本門戒壇の大御本尊に向かって唱題することなのです。これが大聖人を正しく敬うということであり、本意に叶う信心なのです。そのためには、本門戒壇の大御本尊と日蓮大聖人の精神を正しく清浄に伝えている日蓮正宗の信徒として、信心しなければならないのです。
次に史跡についていえば大聖人の本意に叶う正しい信仰を実践したうえで、ゆかりの地を尋ね往時をしのぶことは悪いことではありません。
しかしここで注意すべきことは、まず現在、大聖人の史跡として宣伝されているもののなかで、鎌倉時代からのそのまま保存されている建物はほとんどありません。また場所も長い時間の経過の中で地震や津波などによって地形が変化したり、史跡がわからなくなったものがほとんどです。そしてなによりも大切なことは、史跡の真偽を別として、そこにある寺院が大聖人の精神を正しく受け継ぐ日蓮正宗の寺院なのか、それとも大聖人の精神に反した邪宗寺院なのかということです。
もしあなたが史跡めぐりだといって大聖人の精神から外れた日蓮宗の寺院に詣でるならば、それこそ大聖人を「悪しく敬う」謗法を犯すことになるのです。

宗教に正教と邪教があることがわからない

なぜ人は信仰し、宗教を求めるのかと問う時、ある人は神仏に守ってほしい、ある人は願いを叶えてほしいといい、またある人は先祖の冥福を祈りたいなどとさまざまな答えがかえってくると思います。
現在日本だけでも何十万という数の宗教がありますが、そのなかには、合格祈願のための神社をはじめ、水子供養専門の寺院とか、虫封じの神社があるかと思えば“とげ抜き地蔵”なるものまで、多種多様の宗教があります。
また信仰する対象も、同じキリスト教でも十字架を拝むものや聖書・マリア像・キリスト像を拝むものなどさまざまですし、仏教でも釈尊像を拝むものや、大日如来(だいにちにょらい)、阿弥陀如来(あみだにょらい)、薬師如来(やくしにょらい)などの仏や、観音、弥勒などの菩薩、あるいは大黒天、弁財天などの天界の神を祭るものなど、宗派によって多岐に分かれています。
もし宗教が単に気休めや精神修養のための手段ならば、それはちょうど音楽の好きな人が名曲を聞き、読書家が名作を読んで心をなごませることと同じでしょう。またそれならば、どの宗教によって、どのようなものを拝んでも、その人その人の好みによればよいということになるかもしれません。
でも少し考えてみて下さい。私たちが生活する上で、無関係なものや無縁のものからは生活に直接影響を受けませんが、身近なものや、信用したものは、その善悪、真偽、正邪によって大きな影響を受けることになり、それが人生の指針にかかわるものや、人命に関するものであればなおさら大きな力として影響を受けることになります。
たとえば、進学や就職、結婚などは誰でも慎重に選択するでしょうし、日常生活でも乗物や食べ物あるいは医薬品などは、より信用できるものを選ぶものです。その選択の基準として、自分の経験や、道理の適否・実験の結果・保証の有無・他者の評価などを考慮したうえで、できる限り、よい価値を生ずるもの、すなわち満足できるものを選ぶのではないでしょうか。
これと同じように、宗教もそれぞれ本尊が異なり、教義もさまざまですが、日蓮大聖人は、
「小乗経・大乗経並びに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂(いわゆる)病は重し薬はあさし。其の時上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし」(高橋入道殿御返事・新編887頁)
と仰せのように、三毒強盛の末法の衆生には、真実の教えである妙法蓮華経の大良薬を与えるべきことを教示されています。
釈尊も法華経において、
「唯一乗の法のみ有り、二無く亦三無し」(方便品第二・開結110頁)
と説かれ、仏になる道はただ法華経以外にないことを明かされています。
いいかえると、この経文は一乗の法すなわち法華経以外の教えは、真実の教法ではないとの意味です。このように、宗教には正邪の区別があることを知らなければなりません。

宗教を判定する場合の基準には、どのようなものがあるのか

正しい宗教の条件としては、まず人間の世界を離れた架空の世界を基盤とした宗教ではなく、人間のための宗教であり、人間がよりよく、幸せに生きるための宗教であることが大事です。そのためには、正しい生命観に基づき、正しい道理を備え、全人類を救済する現実の力をもった宗教であることが大切です。
ではどのような方法で宗教を判定したらよいのでしょう。
日蓮大聖人は、次のような基準をもって宗教の正邪を判定することを教えられています。
①三証(さんしょう) 文証、理証、現証のことをいいます。
文証とは、経論などによる証拠であり、教えが独断ではなく、仏の説いたお経によっても裏付けられるかどうかを確かめることです。
理証とは、教えが因果の道理にかなっているかどうかを確かめることです。
現証とは、その教えがたんに理論のみの観念ではなく、現実の人間の生活の上にどのように証明されるかを確かめることです。
②五義(ごぎ) 教(きょう)・機(き)・時(じ)・国(こく)・教法流布の先後(きょうほうるふのせんご)の五つを知ることをいい、宗教の五綱(ごこう)ともいいます。仏法を広めるに当たっての規範であり、この観点に基づいて正しい宗教を選択することです。「教を知る」とは、仏菩薩の説いた経律論や、あらゆる思想哲学宗教の勝劣浅深を見究めることです。「機を知る」の機とは衆生の機根であり、教えを受け入れられる状態にあるかどうかを見定めることです。「時を知る」とは、広まる教えに相応した時代であるかどうかを知ることです。「国を知る」とは、それぞれの国が、どのような教えに縁のある国かを知ることです。「教法流布の前後を知る」とは、先に広まった教えを知って、次に広まるべき教えを知るということです。
この五義のうちの、教の勝劣浅深を判定する基準として、五重相対(ごじゅうそうたい)、五重三段(ごじゅうさんだん)、四重興廃(しじゅうこうはい)、四重浅深(しじゅうせんじん)、三重秘伝(さんじゅうひでん)などがあります。このなかのおもなものを簡単に説明しますと、
「五重相対」とは、内外(ないげ)相対・大小(だいしょう)相対・権実(ごんじつ)相対・本迹(ほんじゃく)相対・種脱(しゅだつ)相対の五重であり、仏教以外のすべての教えと仏教との比較検討から始まり、小乗教より大乗教、権大乗教より実大乗教、法華経迹門より本門、文上脱益(もんじょうだっちゃく)より文底下種(もんていげしゅ)と、次第に高度な教えを選択していく方法です。
「四重興廃」とは、釈尊の教えを、爾前経、法華経迹門、法華経本門、観心(かんじん)、と従浅至深(じゅうせんしじん)して勝劣興廃(しょうれつこうはい)を判じることです。
これらの基準に基づいてさまざまの角度から判定を重ねるとき、初めて唯一の正法を選定することができるのです。

どの宗教が正しいのか自分でたしかめてみたい

現在日本における宗教法人の総数は、18万3千471あり、法人格を持たない宗教団体を含めると22万7千余もあるといわれています。(平成九年 宗教年鑑調査による)
これほど多くの宗教を、実際に自分の目で善悪を確かめたいといってもそれは不可能なことです。
またそのなかで仏法の教えは特に難信難解であり、体験の世界でもありますから、私たちがただ頭で宗教の正邪を理解しようとしても、十年、二十年、または一生涯を費やしてもできることではありません。結局はどの宗教が正しいのかもわからず、信仰の道に入ることもできないでしょう。
たとえば川を渡ろうとする人が橋の手前で、この橋はいつ、誰が作ったのか、材料はなにか、今までこわれたことはないか、などと詮索し続けて、結局向う岸に行きつくことができなかったという話があるように、すべてのものごとに対して、理解し納得しなければ信用しないという人は、一日たりとも生活できなくなるでしょう。
時には批判し、詮索することも必要ですが、元来仏教に限らず、すべて宗教は信ずることから始まります。
法華経には、
「信(しん)を以って入ることを得たり」(譬喩品第三・開結175頁)
とあり、日蓮大聖人は、
「仏法の根本は信を以て源とす」(日女御前御返事・新編1388頁)
と教示されています。
また大聖人は、
「有解無信(うげむしん)とて法門をば解りて信心なき者は更に成仏すべからず。有信無解(うしんむげ)とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし」(新池御書・新編1461頁)
と説かれて、たとえ仏法の教義を理解できる人であっても、信ずる心のない人を救うことはできないと教示され、さらに、
「法華本門の観心の意を以て一代聖教(いちだいしょうぎょう)を按ずるに菴羅果(あんらか)を取って掌中に捧ぐるが如し」(十法界事・新編176頁)
と仰せられ、真実の仏法を信ずるとき、一切の宗教の浅深は、あたかもたなごころを見るように明らかになるのであると説かれています。
正しい御本尊を信受し修行することによって、あなたの真実を求め、見きわめる力は、より正しく発揮され、人生に大きく役立ってゆくことでしょう。

なぜ他の宗教を捨てなければならないのか

釈尊は、一代経の究極である法華経に、
「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」(方便品第二・開結124頁)
と仰せられるように、今まで説いてきた方便の教えを捨てて無上の教えである法華経を最高唯一のものとして説かれました。そしてさらに、
「余経の一偈をも受けざる有らん」(譬喩品第三・開結316頁)
と戒めています。
末法においては御本仏日蓮大聖人が建立された南無妙法蓮華経の仏法こそ文底本因妙(もんていほんにんみょう)の法華経といって究極中の究極であり、すべての仏菩薩をはじめ全世界の民衆を根本から成仏させる無上最高の真実法なのです。
したがって真実の一法以外はすべて方便の教えであり、これを権教ともいいます。権とは“かり”の意で、権教とは実教に対する言葉です。
人がもし“かり”の教えを真実のものと信じこんでその通りに実行したならばどうでしょうか。月収が来月から十倍になるという仮定の話をまともに受けて浪費をしたら家計はどうなるでしょうか。権教を信ずる人は、現実と遊離した架空仮定の人生を歩むことになるのです。
さらに日蓮大聖人は、
「『了義経(りょうぎきょう)に依って不了義経(ふりょうぎきょう)に依らざれ』と定めて、経の中にも了義・不了義経を糾明して信受すべし」(開目抄・新編558頁)
と教えられています。了義経とは完全無欠な教えであり、不了義経とは不完全な教えの経典のことで、日蓮正宗以外の宗旨、宗派はすべて不了義経に当たります。
どの宗教も一見もっともらしいことを説きますが、要するにうわべの言葉よりも何の経をよりどころとしているのか、教理が完全なものであるか、という点がもっとも大事なのです。一部分にありがたいことが説かれているからといっても、教理が不完全な宗教は、ちょうど外見も設備も立派であるが、エンジンが故障している飛行機のようなものです。このような飛行機に「良いところもあるのだから」といって、あなたは乗ることができるでしょうか。
また、正しい教え以外の宗教を「覆相教」といいます。これは真実の教えを覆いかくす教えという意味で、不完全な宗教は正しい仏法を覆いかくし、迷わせる働きをするゆえにこれを除かなければならないのです。
ここを大聖人は、
「今の時は権教即実教の敵と成る」(如説修行抄・新編672頁)
と仰せられています。
人々を救おうとする仏の真実の教に敵対する不完全な宗教は、人間を生命の奥深いところから迷わせ苦しめるものですから、これを悪法とも苦の因ともいうのです。
大聖人は、
「悪法世に弘まりて、人悪道に堕ち、国土滅すべし」(頼基陳状・新編1129頁)と説かれ、悪業による果報として、
①周囲の人々から軽蔑される
②みにくい姿に生まれる
③粗末な衣服や食べ物しか得られない
④財産を求めて努力しても得られない
⑤貧しく下賤の家や邪な家に生まれる
⑥不慮の災難や事故に遭う
⑦人間としての苦しみを常に味わう
と教えられています。
このように日蓮正宗以外の宗教は、人間を苦悩の底につき落とす悪法であり、仏の真意に背く権のものであり、人々をたぶらかす不了義経なのです。まさに薬に似た毒薬というべきでしょう。
釈尊は、
「但虚妄(こもう)を離るるを名づけて解脱(げだつ)と為す」(譬喩品第三・開結173頁)と説いています。真実の幸福は、虚妄(いつわり)の教えを捨てて正法に帰依することによって得られるのです。

なぜ日蓮正宗と他の宗教をいっしょに信仰してはいけないか

信仰は、もっとも勝れた宗教を選び、誠実な清らかな信心を貫くことが大切です。
たとえば一本の牛乳に、一滴の毒を混ぜたとしたら、いかに養分があるからといっても、あなたはその牛乳を飲むことはできないでしょう。
これと同じように、正しい宗教とよこしまな宗教を混同して修行することは、せっかくの正しい信仰の功徳を消し、苦しみを受ける結果になるのです。
釈尊は四十余年未顕真実と説いて、最後八ヶ年の法華経を説いた後は、それ以前の経経はすべて権教(仮の教え)であるから用いてはならないことを明かされています。
ところが真言宗、念仏宗をはじめ、すべて他の宗派は皆この四十余年の経に依っているのですから、これらの教えを法華経の真実の教えにまじえてはならないのです。
それは良薬に毒を入れ、すべてを毒薬にしてしまうようなものだからです。
日蓮大聖人はこのことを、
「法華経を行ずる人の、一口は南無妙法蓮華経、一口は南無阿弥陀仏なんど申すは、飯に糞を雑へ沙石を入れたるが如し」(秋元御書・新編1447頁)といましめられています。
大聖人の教えは、末法のすべての人々を成仏に導く唯一の大法であります。
この大法を信じながら、他の宗教を混じえることは同じように成仏の道を閉ざすことになります。
また大聖人が、
「何に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄にをつべし。うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」(曽谷殿御返事・新編1040頁)と説かれているように、いかに正法を持っても、ほんの少しでも法に背くことがあれば、あたかも千ばいのうるしに一本の蟹の足を入れて、すべてのうるしの効用をなくしてしまうようなものであり、堕地獄のもとになるのです。
正しい仏法は、余事を混えずに信仰しなければ、なんの功徳もありません。
大聖人が、
「此の南無妙法蓮華経に余事をまじへば、ゆヽしきひが事なり」(上野殿御返事・新編1219頁)と仰せのように、成仏の大利益は、日蓮正宗の仏法に余事を混じえず、清浄な心をもって信じ行ずるとき、はじめてもたらされるのです。

日蓮正宗では、なぜ神棚や神札をはずさせるのか

あなたが神棚や神札をはずすことに抵抗を感じるのは、それらに神の力がこもっており、その力によって守られると考えていることによるのでしょうが、それはまったく逆なのです。
大聖人は、
「世皆正(しょう)に背き人悉く悪(あく)に帰す。故に善神(ぜんじん)国を捨てゝ相(あい)去り、聖人(しょうにん)所を辞して還らず。是を以て魔(ま)来たり鬼(き)来たり、災(さい)起こり難(なん)起こる」(立正安国論・新編234頁)と仰せです。
諸天善神は、妙法が広く流布することによってそれを法味として威力を増し、民衆を守護する力をましていくのです。
ところが、白法隠没(びゃくほうおんもつ)の末法の世の中においては、正法を信仰する者が少なく、正法に背いている者が多いために、諸天善神は法味に飢えて、社を捨てて天上にのぼってしまっているのです。
したがって現在の神社には、悪鬼・魔神が棲みついて災難をひきおこすのです。
ですからあなたの家の神棚にも、神札にも悪鬼が棲みついていますので、拝まなくてもそれがあることによって、あなたの生命はもちろんのこと、生活にも悪影響を及ぼし、ひいては先祖をも苦しめることになるのです。
法華経には、
「若し人信ぜずして此の経を毀謗(きぼう)せば則ち一切世間の仏種(ぶっしゅ)を断ぜん。(中略)其の人命終(みょうじゅう)して阿鼻獄に入らん」(譬喩品第三・新編175頁)と説かれています。
末法においては、「此の経」とは、法華経の文底に秘沈された三大秘法の南無妙法蓮華経のことです。
したがって日蓮正宗以外の宗派の本尊や、神社の神札などの信仰の対象ともなるものは、正法に背くものであり、人々を不幸に陥れる謗法の根源なのですから、神棚や神札は速やかに捨てることが肝要です。

もっとも正しい宗教とはなにか

もっとも正しい宗教としての条件は、
第一に教主が宇宙の真理と人間の生命の実相を完璧に悟った方であること
第二に教義が因果の道理に基づいたもので、それが経典として誤りなく表記されていること
第三に本尊が全人類にとって尊崇に値するものであり、現実に即したものであること
第四に信仰修行の規範が普遍的で社会的人道的通念に反しないものであること
第五に信仰によって得られる利益が教説に適っており、表面的一時的なものでなく本質的永続的な利益であること
などを挙げることができます。
第一の教主の悟りについていえば、数多い宗教のなかで、宇宙の実相と人間生命を深く観達し、適確に説き尽くした教えは仏教に勝るものはありません。キリスト教の教主イエスやイスラム教のマホメットなどは神の子とか神の使徒として絶対神を説きましたが、彼らは神の啓示を受けたというだけで、過去に何を修行し、いかなる道理によって何を悟ったのかはまったく不明です。その教義内容も生命の本質に立脚したものでなく、戒律によって表面的な言動を規制し、奇跡と空想を説いているにすぎません。
その点仏教は教主釈尊の因行と果徳を明らかに教示し、五十年間の説法を通して宇宙の真理と人間生命の実相をあらゆる点から完璧に説き尽くしています。釈尊が成仏した根本の一法とは、久遠元初というこの世の最初の時代に、我身がそのまま大法界の真理の当体なりと悟られた自受用報身という仏様の教えであり、この久遠元初の仏様が末法に日蓮大聖人として出現されたのです。
第二の教義の正当性と経典については、釈尊の説いた仏典は数多く現存し、その内容もすべて道理に適ったものですが、その究極が法華経です。この法華経の予言通りに末法の御本仏として日蓮大聖人が出現され、一切衆生を救うために命におよぶ迫害のなかで南無妙法蓮華経の七文字を説きました。この南無妙法蓮華経は諸仏成道の根本原因の仏法であり、教義の面からも、功徳の面からも釈尊の法華経より、はるかに勝れたものです。大聖人はこの大仏法を広く人々に説き示すために厖大な量の御書を書き遺されています。
第三の本尊については、本尊とは、“根本として尊崇すべきもの”の意味で、少なくとも人間として誰もが尊敬するに値いするものでなければなりません。世の宗教のなかには、キツネ(稲荷)、ヘビ(竜神)、ワニ(金毘羅)などの畜生を拝むものや、先祖供養に名を借りて亡者の霊を本尊とするもの、仏としての悟りを得ていない菩薩や天上の神などを本尊とするものなどがありますが、これらは最上至尊の本尊ではないのです。またいかに立派な神や仏を立てても、それが架空のものであったり、空想上のものであっては、貴重な人生を托する本尊としてはきわめて頼りなく、危険なことというべきです。
久遠元初の仏である日蓮大聖人が、
「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(経王殿御返事・685頁)と仰せられて、御身に備わる一切の悟りと大功徳の力をそのまま図顕遊ばされた本門戒壇の大御本尊こそもっとも尊く勝れた御本尊なのです。
第四の信仰修行についていえば、宗教のなかには修行として、山にこもったり、断食をするもの、神札や守り札を貼っておけば修行は一切必要ないというものなどさまざまです。また戒律宗教などの教えを現実生活の中で堅持しようとすると、さまざまな支障をきたしたり、非常識な行為になることもあります。日蓮正宗の信仰は教条的に現実生活上の行動を規制するものではなく、日常生活の中で日日、御本尊を信じ礼拝し唱題することが基本であり、誰でも支障なく信行に励むことができるのです。
第五の信仰による利益については、大聖人が、
「道理証文よりも現証にはすぎず。」(三三藏祈雨事・新編874頁)と仰せられるように、現証は宗教を判定するうえでもっとも大切なことです。
さらに大聖人は、
「南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天・帝釈・日月・四天等昼夜に守護すべし」(諌暁八幡抄・新編1543頁)とも、
「南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ」(九郎太郎殿御返事・新編1293頁)とも仰せられています。すなわち、日蓮正宗の御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える人は、諸天善神に守護され、未来永劫にくずれることのない仏の境界を築くことができるのです。
現在、日本国内のみならず全世界において、正宗信徒が飛躍的に増加し、歓喜にみちて仏道修行に邁進しています。
日蓮正宗の仏法が世界でもっとも正しい宗教であることを、全世界の人々に理解される日もそう遠いことではないでしょう。

なぜ日蓮正宗だけが正しいといえるのか

「正とは一に止まる」という言葉がありますが、正しい教法が二つも三つもあるわけがありません。これについて、釈尊は、
「十方佛土の中には、唯一乗の法のみ有り、二無く亦三無し」(方便品第二・開結110頁)と説き、日蓮大聖人は、
「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし」(上野殿御返事・新編1219頁)
と仰せられています。
日蓮正宗がもっとも正しい宗旨である理由は、法華経の予証どおりに末法に出現された御本仏日蓮大聖人の教えを、七百年間にわたって現在まで清浄に誤りなく受けついできた唯一の教団であるから、といえましょう。
鎌倉時代に出現された日蓮大聖人は、末法万年にわたって人々を苦悩の闇から救済するために、数々の大難に遭いながら、南無妙法蓮華経を説き顕わされました。そして南無妙法蓮華経の法体として一閻浮提総与(全世界のすべての人々に与えるという意味)の大曼荼羅御本尊を図顕建立されたのです。この御本尊は日蓮大聖人の当体でもあり、久遠元初の自受用身という宇宙法界の根本真理の当体でもあります。
大聖人は、
「抑当世の人々何れの宗々にか本門の本尊・戒壇等を弘通せる。仏滅後二千二百二十余年に一人も候はず」(教行証御書・新編1110頁)
と、大聖人ただ一人末法の仏として仏勅によって出現され、三大秘法の大法を広めることを明かされています。
三大秘法とは本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇をいいますが、本門の題目とは大聖人が建立遊ばされた一閻浮提総与の大御本尊に向かって唱える題目のことであり、本門の戒壇とは、この大御本尊が安置され、しかも一切の人々が修行する場所をいいます。
したがって三大秘法のなかには「本門の本尊」が中心であり、本門の本尊なくしては題目も戒壇も存在しないのです。このゆえに本門の本尊を「三大秘法総在の御本尊」とも尊称します。
日蓮大聖人は入滅に先立って、門弟のなかから日興上人を選んで、本門戒壇の大御本尊をはじめとする法門のすべてを相承し付嘱されました。
大聖人の精神と法義を固く守られた日興上人は、時あたかも地頭の不法によって謗法の地になりつつあった身延の地を去る決意を去れ、大聖人が生前より、
「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ」(三大秘法禀承事・新編1595頁)
「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(身延相承書・新編1022頁)
と遺命されていたとおり、日本第一の名山富士山の麓に一切の重宝を捧持して弟子たちと共に移られ、そこに大石寺を建立されたのです。
その後、大聖人の仏法は第三祖日目上人、第四世日道上人と、一器の水を一器に移すように代々の法主上人によって受けつがれ厳護されて、現在御当代上人に正しく伝えられているのです。この間の宗門史は、また正法厳護のための尊い苦難の歴史でもありました。
いま私たちが総本山大石寺に参詣し、一閻浮提総与の大御本尊を拝するとき、
「須弥山に近づく鳥は金色となるなり」(本尊供養御書・新編1054頁)
の金言どおり、私たちの生命の奥底は仏の威光に照らされて金色に輝き、即身成仏の姿になっているのです。
現在、国の内外を問わず、大御本尊の広大な功徳によって苦悩を希望に転じ、福徳に満ちて信心に励む多くの人々の姿が、日蓮正宗の正しさを物語っているといえましょう。

日蓮正宗がそんなによい宗旨なら、なぜ社会の人から広く受け入れられないのか

質問の内容はいろいろな意味に解釈できます。具体的にいえば、
「そんなによい宗旨なら」
一、もっと昔から広まっていたはずだ
二、もっと大ぜいの人が信仰するはずだ
三、もっと学識者や著名人に受け入れられるはずだ
四、もっと短期間に広まるはずだ
などの意味を含んでいるように思われます。
いま、これらの疑問に対して、まとめて説明しましょう。
釈尊は法華経に、
「此の法華経、最も為れ難信難解なり」(法師品第十・開結325頁)
と説き、法華経は随自意といって衆生の機根にかかわりなく、仏が悟った法をそのまま説かれたもので、教義が深遠なために難信難解であり、さらに正法を信ずる時は必ず大難や障害が起るために難信難解なのであると仰せられています。
とくに末法は衆生の機根も邪悪な時代であり、出現される仏も弘通される教法もより鮮明に破邪顕正を旨とするものであるから、迫害や誹謗は身命に及ぶものとなり、弘教は困難をきわめるであろうと、釈尊は予言されました。
釈尊の予言どおり、末法の御本仏日蓮大聖人の生涯は、立正安国と衆生済度の大慈悲に貫かれ、同時にまた邪悪な大難障魔との闘いの連続でもありました。
日蓮正宗は日蓮大聖人の教えのままに、法の正邪を峻別する折伏の宗旨であり、個個の人間に活力を与え、現実生活の向上を説く宗教であるため、封建主義の時代には、民衆を抑圧して体制維持を計る為政者から弾圧されたのです。
したがって日蓮正宗の本格的な布教は、信教の自由・布教の自由が認められたのちといっても過言ではありません。
折伏弘教が進むにつれて、その反動としての中傷や妨害もさまざまに起りました。なかには、せっかく日蓮正宗の話を聞いても、「日蓮正宗は新興宗教だ」「葬式の香典を全部持ち去ってしまう」「病人と貧乏人の集まりだ」などの悪質なデマに惑わされたり、世間の目を気にして入信できなかった人も多くいたのです。
現在でも、正邪をはっきりさせることに抵抗を感じる人や、信仰するよりは遊んでいた方が楽しいという人、朝夕の勤行と聞いて尻ごみする人など、入信できない人も大ぜいいるようです。
そのようななかで、人生を真摯に考え、先祖からの宗教を改めて日蓮正宗に帰依することは実に勇気のいることであり、至難の業なのです。それにも拘らず、日蓮正宗の信徒は、現在、日本国内のみならず全世界に広く活躍しています。
さまざまな障害のなかで、このように発展したのは、正宗僧俗の折伏弘教の努力によることはいうまでもありませんが、何よりも日蓮正宗の仏法が正統であり、御本尊に偉大な功徳が厳然とましますからにほかなりません。
世間には学識者や有名者、著名人といわれる人がおりますが、このなかには日蓮正宗の信仰をしている人もいれば、この宗教にまったく無知な人、世評や保身を気にして信仰できない人などさまざまです。ですから学識者や著名人が信仰するしないによって宗教の必要性や正邪を判断することはあまり意味のないことです。
また“なぜ短期間に広まらないのか”という点ですが、日蓮大聖人の仏法に大利益があるからといって、一年や二年で願いごとがすべて叶うというわけにはいきません。
なぜなら私たちには過去世からの種々の宿業があり、花も時がこなければ咲かないように、信仰の功徳が開花する時期は人によって異なるのです。また賢明な親は子供の欲しがる物を言いなりに買い与えないと同じように、目先の願望を叶えるだけが仏様の慈悲ではありません。いかなる時でも、正法を堅持し生命力を発揮して人生を悠々と歩む人間に転換されていくところに正法の真実の利益があるのです。したがって信仰の利益は、他人の目から見て容易に判断できるものではありません。
しかし信仰によって御本尊の功徳を実感し、体験した人々の歓びと確信が、現在多くの人々を正法に導き、真実の幸福への人生を歩ませているのです。難信難解の正法を語り、その功徳の素晴らしさを伝えていくためには、着実な努力と時間の積み重ねが必要なことはいうまでもありません。
あなたが、もし本当に“日蓮正宗は社会に広く受け入れられていない”と思い込んでいるならば、それは無認識による誤解であり、さもなければ偏見というべきです。
また“もっと大ぜいの人が信仰しなければ、自分は信仰する気にならない”という意図で冒頭の質問をされるならば、それはあたかも“もう少し大ぜいの人が法律を守らなければ、自分も法律を守る気がしない”ということと同じで、良識ある大人のいうことではありません。
他人がどうあろうと、周囲にどう評価されようと、正しい道を知ったならば、確信をもって自ら邁進する人こそ、真に勇気ある人であり、聡明な人というべきでしょう。

日蓮正宗の信仰をすると、どのような利益があるのか

法華経に、
「如来の知見は広大深遠なり」(方便品第二・開結189頁)と説かれているように、仏の知見と功徳のすべてを書き記すことはとうてい不可能なことですが、経文と御書のなかから主な教示を挙げてみましょう。まず分別功徳品には、
「釈尊の滅後に是の経(法華経すなわち南無妙法蓮華経)を能く行ずる者は
①本尊を安置する塔寺を建立し
②僧坊などの修行者の道場を建立寄進する境遇になる
③正法を修行する人に対して深く敬い供養する
④仏法を正しく理解して他の人に法を説くことができる
⑤行動や言葉が正しく清らかになる
⑥正法の善友にめぐまれる
⑦忍耐の心が強くなり瞋りがなくなる
⑧意志や信念が固くなり、周囲の悪法に紛動されなくなる
⑨心が落着き、考えが深くなる
⑩何物にも恐れず善行をたゆまず積み重ねる
⑪多くの善い教えや知識を正しく生かすことができる
⑫感覚が鋭利となり、頭脳は明晰に、智慧は深くなる
⑬難問を解決する力が備わる」(開結四五九取意)
と説かれています。
また随喜功徳品には、
「正法を聞く功徳について、
一、正法を説く寺院に詣で、あるいは座り、あるいは立って、是の経をわずかな間でも聴聞する功徳は、来生には最上の宝車を得て天人の宮殿に生まれる。
二、正法を講ずるところに行き、座して聞き、他人に座を分かち与える功徳は、来生は仏法守護の統領である帝釈天の座に、また、裟婆世界(しゃばせかい)の主である大梵天の座に生まれる。あるいは人間世界の最高統治者である転輪聖王(てんりんじょうおう)の座に生まれる。
三、他人に勧めて共に法華経を聞く功徳は、来生は聡明で智慧が深く、健康な身心と整った美しい容姿をもって生まれ、世世に仏に値い福徳を増すようになる」(開結四六八取意)
と説かれています。
また日蓮大聖人は経王殿御返事に、
「この御本尊を信ずる者は、
①病魔や障害に犯されない
②諸天善神に守護される
③福徳が増して幸福になる
④どんな場合でも恐れることがなくなる
⑤自由自在の境遇になる」(新編六八五取意)
と説き、
当体義抄には、
「正直な心で南無妙法蓮華経と唱える人は、
①不幸の根源である悪心(煩悩)が、そのまま仏のような清浄な生命(法身)に転ずる
②悪い行為(業)は、正しい判断力を備え、仏のような智慧(般若)に転ずる
③苦しみや悩み悲しみは、希望にみちた自在の境界(解脱)に転ずる」(新編六九四取意)
と仰せられています。
総本山大石寺第二十六世日寛上人(にちかんしょうにん)も、
「この本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用(みょうゆう)あり。故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来たらざるなく、理として顕れざるなきなり」(観心本尊抄文段・歴全五-266頁)
と教えられています。
大御本尊の功徳は、即身成仏の境界に極まるのですが、そのためには、自ら信心を奮い起こし、正しい指導のもとに修行しなければならないのです。

日蓮正宗の信仰には、なぜ利益があるのか

天台大師(てんだいだいし)は、利益と功徳について、
厳密にいえば、功徳とは自ら積むものであり、利益とは他から与えられるものという違いはあるが、仏道修行による得益の相からいえば、その意義は同一である(法華玄義巻六取意)、といわれています。
したがって、ふつうは利益のことを功徳といってもさしつかえありません。
妙楽大師(みょうらくだいし)の弘決には、
「仮使(たとい)発心真実ならざる者も正境(しょうきょう)に縁すれば功徳猶多し」
といわれるように、日蓮大聖人が顕わされた一閻浮提総与の大御本尊には、仏様が一切衆生を救う仏力と、あらゆる災いを除いて人々を幸福に導く法力が厳然と納められておりますので、これに縁する者は大きな功徳を積むことができるのです。
御本尊を拝しますと左の御かたに「有供養者福過十号(うくようしゃふくかじゅうごう)」としたためられています。
十号とは、仏様の尊称で、如来・応供(おうぐ)・正偏知(しょうへんち)・明行足(みょうぎょうそく)・善逝(ぜんぜい)・世間解(せけんげ)・無上士(むじょうし)・調御丈夫(ちょうごじょうぶ)・天人師(てんにんし)・仏世尊(ぶっせそん)のことですが、これについて大聖人は、
「末代の法華経の行者を讃め供養せん功徳は、彼の三業相応の信心にて、一劫が間生身の仏を供養し奉るには、百千万億倍すぐべしと説き給ひて候。これを妙楽大師は福過十号とは書かれて候なり」(法蓮抄・新編813頁)
と仰せられ、法華経の行者日蓮大聖人の当体である御本尊を信仰し供養する者の功徳は、仏典に説き示されている生身の仏を長い間供養するよりも百千万億倍勝れ、その無量の智慧と福徳は仏の十号にもまさると説かれています。
したがって仏力・法力の功徳は、他から安易に与えられるものではなく、御本尊に対する信力・行力を磨くことによって、はじめて積むことができるのです。
ふつう“ご利益”というと、お金が儲かったり、病気が治ったり、願いごとが叶うなどの目前の現証だけを考えがちです。このような今世の利益も大事ではありますが、仏様はすべての生命は今世だけのものではなく、過去・現在・未来の三世にわたって永遠不滅なるがゆえに過去世の罪障を消滅し、今世のみならず未来永劫にわたって清浄な幸福境界を確立することが真実の利益であると教えられています。
日蓮大聖人は功徳について、
「功徳とは六根清浄の果報なり。(中略)悪を滅するを功と云ひ、善を生ずるを徳と云ふなり。功徳とは即身成仏なり」(御義口伝・新編1775頁)
と仰せです。六根とは、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の生命の識別作用の器官をいい、それが清浄になるとは、六根に備わる煩悩のけがれが払い落とされて清らかになり、ものごとを正しく判断できる英知が生まれることなのです。
したがって正しい御本尊を信ずるとき、煩悩はそのまま仏果を証得する智慧となり、生命に内在する仏性はいきいきと発動し、迷いの人生は希望に満ちた楽しい人生に転換されていくのです。
これを即身成仏の境界というのです。
正しい信仰を知らない人は、この六根が無明の煩悩におおわれて、人生に対する判断に迷い、とりかえしのつかない過ちを犯すことが多いのです。
このように日蓮正宗の信仰は、人間の生命を根本から浄化し、英知と福徳を備えた幸福な人生を築くものですが、その利益は個人の人間に止まるものではありません。
大聖人は依正不二という法門を説かれています。依とは、私たちが生活するこの国土をいい、正とは、私たち人間のことです。この法門は、人間の思想や行動がそのまま非情の国土世界に反映するという“不二”の関係にあることを明かしたものであり、国土の災害や戦乱・飢餓を根本的に解決し、悠久の平和社会を実現するためには、正報である人間が清浄な福徳に満ちた生命に転換しなければならないことを示したものです。
私たちが三世にわたって即身成仏の境涯を築き、しかも国土を平和社会に変える方途は、日蓮正宗総本山大石寺に厳護される本門戒壇の大御本尊を純真に拝し、弘宣していく以外にはないのです。


出典:日蓮正宗総本山大石寺「正しい信仰と宗教」から転載

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