現在、釈尊(しゃくそん)生涯(しょうがい)に関する年代や年齢(ねんれい)などにはいろいろな説がありますが、ここでは日蓮大聖人様が用いられたと言われる『周書(しゅうしょ)異記(いき)』の説に従って、釈尊の生涯を紹介したいと思います。

釈迦族

釈迦(しゃか)とは、現在のネパール地方の南部に住んでいた種族の名前であり、この釈迦族は当時、一種の共和国を形成していたと言われています。まず十人の長を選び、その中から一人の長を選出して、これを王と称していました。この釈迦族の首府(しゅふ)迦毘羅衛城(かびらえじょう)(カピラヴァストウ)と言いました。

釈尊の誕生

この釈迦族から出た聖者(ムニ)を尊称して釈迦(しゃか)牟尼(むに)世尊(せそん)と言い、これを略して釈尊と言います。

釈尊は迦毘羅衛城の浄飯王(じょうぼんのう)(シュッドーダナ)を父とし、摩耶(まや)(マーヤ)夫人(ぶにん)を母として誕生しました。誕生した悉達多(しったるた)太子(たいし)が、七歩歩いて「天上(てんじょう)天下(てんが)唯我(ゆいが)独尊(どくそん)」と言った話は広く知られています。

阿私陀仙人の涙

浄飯王は太子の誕生を喜び、将来を阿私陀(あしだ)仙人(せんにん)に占ってもらうことにしました。すると仙人は「この王子は将来、大王となってインドを統率するか、出家したなら偉大な仏になるであろう。しかし、年老いた私はこの王子の成人した姿を見ることができない」と言って涙を流したと言われています。

出家

悉達多太子は幼い頃から聡明(そうめい)であり、青年時代には文武両道においても非常に優れていたので、浄飯王は太子に王位を継がせようとしました。しかし太子にはその気持ちはなく、(きさき)耶輸(やしゅ)陀羅(だら)(ヤショーダラ)との間に男子羅睺羅(らごら)(ラーフラ)が生まれたのを機に、出家の道を(こころざ)す気持ちが次第に強まっていきました。

ある時、太子は四方の城門から遊楽(ゆうらく)に出ることになりました。ところが最初に、東の門から出ると老人に会い、次に南の門より出ると病人に会い、西の門から出ると死者に会いました。そのたびに快楽の欲望を失い、ますます俗世(ぞくせ)嫌気(いやけ)が差した太子が最後に北の門から出ると、身も心も清浄な一人の出家者に出会いました。そこに(まさ)しく自分の理想の姿を見出した太子は、この時出家の意志を固めたのです。これを「四門(しもん)出遊(しゅつゆう)遊観(ゆうかん))」と言います。

成道

王宮(おうぐう)を出た太子は、王から(つか)わされた阿若(あにゃ)(きょう)陳如(じんにょ)(アジュニャ・カウンディンヤ)等五人の比丘(びく)と共に、初めは阿羅(あら)邏迦(らか)(らん)(アーラーダ・カーラーマ)、優陀(うだ)羅羅(らら)摩子(まし)(ウドラカ・ラーマプトラ)という二人の仙人について修行したと言われていますが、それによって悟りを得ることはできませんでした。

その後、十二年間にわたってあらゆる苦行を修めましたが、快楽に溺(おぼ)れるのと同様に、極端(きょくたん)な苦行もまた無意味なことを悟り、仏陀(ぶっだ)伽耶(がや)(ブッダガヤ)の近くにある尼連(にれん)禅河(ぜんが)(ナイランジャナー)で沐浴(もくよく)し、牧女(もくにょ)(ほう)じた乳粥(ちちがゆ)を食べて元気を恢復(かいふく)しました。これを見た五人の比丘たちは、釈尊が退転したと思い、皆その場を去っていきました。その後、釈尊は菩提樹(ぼだいじゅ)の下の金剛(こんごう)宝座(ほうざ)に座して沈思(ちんし)黙想(もくそう)の末、ついに悟りを開き、ここに仏陀(ぶっだ)(覚者)となったのです。時に三十歳でした。この時、伽耶(がや)という町で仏陀が悟りを開いたということから、以後この地を仏陀伽耶と呼ぶようになったのです。

転法輪

釈尊は成道(じょうどう)したその座で二十一日間華厳経(けごんぎょう)を説き、その後、波羅奈国(はらなこく)(バーラナシー)の鹿野苑(ろくやおん)(サルナート)に行き、釈尊が苦行を()てたとき、その元を去った五人をまず最初に教化し弟子としました。次いで、仏陀伽耶方面へ行き、迦葉(かしょう)(カッサパ)三兄弟を弟子とし、進んでマカダ国の王舎城(おうしゃじょう)(ラージャグリハ)へ入り、そこで舎利弗(しゃりほつ)(シャーリプトラ)、目犍連(もっけんれん)(マウドガリヤーヤナ)の二大弟子をはじめ、多くの人々を教化する一方、頻婆娑(びんばしゃ)羅王(らおう)(ビンビサーラ)によって竹林(ちくりん)精舎(しょうじゃ)、また舎衛国(しゃえこく)須達(しゅだつ)(シュダッ夕)長者(ちょうじゃ)によって祇園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)供養(くよう)され教団は大いに興隆(こうりゅう)しました。

故郷の迦毘羅衛城に帰ったときは、従弟(いとこ)阿難(あなん)、釈尊の子羅?羅、義母の摩訶(まか)波闍(はじゃ)波提(はだい)、妃の耶輸陀羅等、多くの同族が弟子となりましたが、阿難の兄、提婆(だいば)達多(だった)(デーヴァダッタ)は、マカダ国の太子阿闍世(あじゃせ)結託(けったく)して釈尊の化導を妨害(ぼうがい)しました。このような九横(くおう)大難(だいなん)と言われる法難に()いながら法を説き、最後にマカダ国の霊鷲山(りょうじゅせん)(グリドラクータ)で、出世(しゅっせ)本懐(ほんがい)である法華経(ほけきょう)を説き明かしたのです。

これら一代説教の内容は、後に中国の天台(てんだい)大師(だいし)によって五時(ごじ)八教(はっきょう)として判釈(はんじゃく)されました。

涅槃

五十年間の説法教化の後、拘尸那(くしな)掲羅(がら)(クシナガラ)の沙羅(しゃら)双樹(そうじゅ)の下で、二月十五日、八十歳で入滅(にゅうめつ)されました。これを涅槃(ねはん)と言います。

八相成道

仏が衆生を救うために、御一生のうちに現わされた八つの姿を八相(はっそう)成道(じょうどう)と言います。八相成道とは、①下天(げてん)都率天(とそつてん)より降下(こうげ)すること)、②託胎(たくたい)(母の胎内(たいない)に宿ること)、③出胎(しゅったい)出生(しゅっしょう)すること)、④出家(家を出て修行の道に入ること)、⑤降魔(ごうま)(悟りを(さまた)げる魔を断破(だんぱ)すること)、⑥成道(悟りを開くこと)、⑦転法輪(説法をして衆生を教化すること)、⑧入涅槃(にゅうねはん)(説法を終えて入滅すること)です。

私たちは、この八相成道を示された釈尊の真実の目的が、法華経を説くためであったことを(わす)れてはなりません。

大白法 平成26年12月16日刊(第899号)より転載