御法主日如上人猊下御説法 平成27年4月6日 総本山御影堂

宗祖日蓮大聖人、『聖愚問答抄』にのたまわく、

「愚人云はく、日本六十余州人替はり法異なりといへども、或は念仏者或は真言師或は禅或は律、誠に一人として謗法ならざる人はなし。(しか)りと(いえど)も人の上沙汰(さた)してなにかせん。(ただ)我が心中に深く信受して、人の誤りをば余所(よそ)の事にせんと思ふ。聖人示して云はく、(なんじ)が言ふ所実にしかなり。我も()の義を存ぜし処に、経文には或は不惜身命(ふしゃくしんみょう)とも或は寧喪(にょうそう)身命とも説く。何故にかやう(加様)には説かるゝやと存ずるに、(ただ)人をはゞからず経文のまゝに法理を弘通せば、謗法の者多からん世には必ず三類の敵人有リて命にも及ぶべしと見えたり。其の仏法の違目を見ながら我もせめず国主にも訴へずば、教へに背きて仏弟子にはあらずと説かれたり。涅槃経第三に云はく『()し善比丘あって法を(やぶ)らん者を見て置いて呵責(かしゃく)駈遣(くけん)挙処(こしょ)せずんば、(まさ)に知るべし()の人は仏法中の(あだ)なり。若し()く駈遣し呵責し挙処せば、(これ)我が弟子真の声聞なり』と。此の文の意は仏の正法を弘めん者、経教の義を()しく説かんを聞き見ながら我もせめず、我が身及ばずば国主に申し上げても是を対治せずば、仏法の中の敵なり。若し経文の如くに、人をもはゞからず、我も()め、国主にも申さん人は、仏弟子にして真の僧なりと説かれて候。されば仏法中怨の責めを(まぬか)れんとて、かやうに諸人に(にく)まるれども命を釈尊と法華経に奉リ、慈悲を一切衆生に与へて謗法を責むるを心えぬ人は口をすくめ(まなこ)(いか)らす。(なんじ)実に後世を恐れば身を(かろ)しめ法を重んぜよ。是を以て章安大師云はく『(むし)ろ身命を(うしな)ふとも教を(かく)さゞれとは、身は軽く法は重し身を(ころ)して法を弘めよ』と。此の文の意は身命をばほろ()ぼすとも正法をかくさゞれ、其の故は身はかろく法はおもし、身をばころすとも法をば弘めよとなリ」(御書四〇四頁) (題目三唱)

本日は、恒例の総本山御霊宝虫払(むしばらい)法会(ほうえ)を奉修いたしましたところ、法華講大講頭・法華講連合会委員長・永井藤蔵氏をはじめ、国内外より代表の御信徒各位には多数、御登山され、御報恩の法会を執り行うことができまして、まことに有り難く、厚く御礼申し上げます。

さて本日は、ただいま拝読申し上げた『聖愚問答抄』の一節について少々申し上げたいと存じます。

ただいま拝読申し上げた『聖愚問答抄』は、文永五(一二六八)年、日蓮大聖人四十七歳の時の御述作にして、上下二巻となっております。

対告衆(たいごうしゅう)については明らかではありませんが、当時の知識階級である武士を中心として説かれたものであろうことは、全体の文章を通じて推測することができます。

本抄は題号の示す通り、聖人と愚者との問答体をもって、法華一乗に()する次第が述べられており、権実相対の上からこれらを明らかにしています。

上巻では、律宗、浄土宗、真言宗、禅宗等の主張を説く愚者に対して、知人が訪ねてきて前の説を破し、自宗を立てて信仰を勧めています。

愚者は、そのたびにその義に承服してきましたが、ついにどれが()か非かと迷い、法華経を聞くに及んで、はたして真実の法はなんであろうかと、自ら法華経の聖人を尋ねるのであります。

聖人は、法華経こそ已今当の三説に超過する最第一の法であると、浄土、真言の悪法を破折し、

(なんじ)実に道心あらば急いで先非を()ゆべし」(御書三九四頁)

と述べられているのであります。

下巻におきましては、禅の立義(りゅうぎ)を挙げて、その非を破折され、法華経に帰すべきであると説かれています。

愚人はこれらの説を聞き、真実の義を知りますが、先祖からの宗教を捨てるのは不忠不孝ではないか、また唱題修行があまり簡単なために、まことの出離の法であろうかなどとの疑問に対して、聖人は真実の孝養を教え、法華経の修行は折伏によることを述べ、また首題の妙法五字を受持する功徳の深厚なることを明かされているのであります。

その結果、ついに愚人は妙法受持の人となり、今身(こんじん)より仏身に至るまで信心を退転することなく精進を誓うのであります。

以上が本抄の概略でありますが、本日拝読申し上げました箇所は、たとえ法華経を信ずといえども、折伏を行じなければ、謗法の者と共に悪道に()ちると説かれているところであります。

初めに「愚人云はく、日本六十余州人替はリ法異なりといへども、或は念仏者或は真言師或は禅或は律、誠に一人として謗法ならざる人はなし」と仰せですが、まず愚人の言葉として、日本国六十余州それぞれ、人は変わり道は異なっていても、念仏者か、真言師か、禅宗か、律宗かのいずれかであって、一人として謗法でない者はいない、と仰せであります。

たしかに、今日的に見ても、創価学会をはじめ邪義邪宗の者は国土に充満し、まだまだ本宗に帰依している人々は少ない現状を見る時、私どもはこの言葉の重さを()みしめ、一人でも多くの人に妙法を下種し、折伏していかなければならないと痛感するものであります。

次に『(しか)りと(いえど)も人の上沙汰(さた)してなにかせん。(ただ)我が心中に深く信受して、人の誤りをば余所(よそ)の事にせんと思ふ」と仰せでありますが、愚人はそれ故、他人のことをかれこれ言ったところで、なんの(せん)もないことで、ただ自分の心のなかで正法を深く信受して、他人の誤りにはか

かわらないことにしようと思っている、と言っているのであります。

この発想は、自分のことしか考えない、自分だけが成仏をすればよいという、いわゆる小乗的な考えであり、極めて利己的な思考であります。このような小乗の利己的な考えは、一切衆生をことごとく成仏に導くという大乗中の大乗たる法華経の精神からは遠く離れたものであり、この考えに固執(こしゅう)している限り、真の幸せを築くことはできません。

次に「聖人示して云はく、(なんじ)が言ふ所実にしかなり。我も()の義を存ぜし処に、経文には或は不惜身命(ふしゃくしんみょう)とも或は寧喪(にょうそう)身命とも説く」と仰せでありますが、愚人の考えに対して聖人が(さと)して言うのには、あなたの言うことはまことにもっともである。私もそのように思っていたが、しかし、経文には「不惜身命」とも

「寧喪身命」とも説かれている。

「不惜身命」とは法華経勧持品の御文で、身命を惜しまず、法華経を弘通することであります。「寧喪身命」とは「(むし)ろ身命を(うしな)うとも教えを(かく)さざれ」ということで、これは涅槃経の文であります。たとえ身命を失うことがあっても、所説の教えに背いてはならないとの意であります。

すなわち、法華経は自行化他にわたる教えであり、己れだけが幸せになればよいというような小乗的な偏頗(へんぱ)な考え方は、仏の教えに大きく反することになるとの仰せであります。

次に「何故にかやう(加様)には説かるゝやと存ずるに、(ただ)人をはゞからず経文のまゝに法理を弘通せば、謗法の者多からん世には必ず三類の敵人有リて命にも及ぶべしと見えたり」と仰せであります。ではなぜ、かように説かれるかというと、もし人を(はばか)らず、経文の通り法理を弘通すれば、謗法の者が充満している世の中には必ず三類の強敵(ごうてき)、すなわち俗衆増上慢・道門増上慢・僣聖(せんしょう)増上慢が現れて、命にも及ぶことが起きるであろうが、しかし「其の仏法の違目を見ながら我もせめず国主にも訴へずば、教へに背きて仏弟子にはあらずと説かれたり」と仰せであります。すなわち、しかりといえども、仏の教えの善悪を見ながら、知りながら、我れも責めず、国主へも訴えなかったならば、仏の教えに背き、仏弟子ではないと仰せであります。

つまり、間違った教えに対して何もせずにいることは、すなわち邪義邪宗の謗法の者に対して、ただ漠然と見ているだけで、(ただ)しもしない、折伏もしないことは、仏の御制誡に背くことになり、そのような者は仏弟子には(あら)ずと、厳しく仰せあそばされているのであります。

次に「涅槃経第三に云はく『()し善比丘あって法を(やぶ)らん者を見て置いて呵責(かしゃく)駈遣(くけん)挙処(こしょ)せずんば、(まさ)に知るべし()の人は仏法中の(あだ)なり。若し()く駈遣し呵責し挙処せば、(これ)我が弟子真の声聞なり』と」と示されます。ここでは、涅槃経の御文を挙げて、折伏をしない者は、なぜ仏弟子にも非ずと言うのかとの疑問に対して、答えられているのであります。

すなわち、涅槃経第三には「もし善比丘があって、仏法を破る者を見て、置いて、呵責し、駈遣し、挙処しなければ、この人は仏法のなかの怨である。されど、もし能く駈遣し、呵責し、挙処する者は、これは真の我が弟子、真の声聞である」と仰せられているのであります。

呵責とは、()かり責めること、相手の非を厳しく責めることであります。つまり、謗法を責めることであります。駈遣とは、追い払うこと、破仏法・正法誹謗の者を対治することであります。挙処とは、はっきりと罪過を挙げて糾明し、処断することであります。すなわち、法を破る者、謗法の者に対しては、破邪顕正の意義をもって厳しく対処しなければならないと仰せられているのであります。

されば『阿仏房尼御前御返事』には、

()ふといはざる(不言)との重罪(まぬか)れ難し。云ひて罪のまぬかるべきを、見ながら聞きながら置いていまし()めざる事、眼耳の二徳(たちま)ちに破れて大無慈悲なり。章安の云はく『慈無くし(いつわ)り親しむは即ち(これ)彼が(あだ)なり』等云云」(同九〇六頁)

と、謗法に対しては、そのまま黙過することなく、その誤りを糾し、破折しなければならないと仰せられているのであります。御文中「慈無くして詐り親しむは即ち是彼が怨なり」との御文意をよくよく拝すべきであります。

また『曽谷殿御返事』には、

謗法(ほうぼう)を責めずして成仏を願はゞ、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなしはかなし。(いか)に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄に()つベし。うるし()ばい()(かに)の足一つ入れたらんが如し。『毒気深入(どっけじんにゅう)失本心故(しっぽんしんこ)』とは是なり」(同一〇四〇頁)

と仰せであります。

ここでも、大聖人様は「謗法を責めずして成仏を願はゞ、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし」と仰せになっておられます。私どもは、いかに謗法を放置することが、仏様の教えに背き、誤りであるかをよく知り、邪義邪宗の者に対しては、常に慈悲の折伏を行ずべきであります。

また『妙法比丘尼御返事』には。

「仏法の中には仏いまし()めて云はく、法華経のかたきを見て世をはゞかり恐れて申さずば釈迦仏の御敵、いかなる智人善人なりとも必ず無間地獄に堕つべし」(同一二六二頁)

と仰せであります。謗法の破折なくして真の成仏はなく、謗法を見ておいて、そのままにしておくことは「いかなる智人善人なりとも必ず無間地獄に堕つべし」と厳しく御制誡あそぱされていることを、よくよく銘記すべきであります。

次に「此の文の意は仏の正法を弘めん者、経教の義を()しく説かんを聞き見ながら我もせめず、我が身及ばずば国主に申し上げても是を対治せずば、仏法の中の敵なり。若し経文の如くに、人をもはゞからず、我も()め、国主にも申さん人は、仏弟子にして真の僧なりと説かれて候」と仰せであります。「此の文の意」すなわち、前文に挙げた涅槃経の御文の意は、仏の正法を弘めようとする者は、経教について誤り説く者を、聞きながら見ながら黙過し、自らもこれを破折せず、もし自分ではできなければ、国主に申し上げてでも対処しなければ、仏法のなかの敵

となる、と仰せであります。反対に、もし経文の如くに、人も(はばか)らず、知らぬふりなどせず、自らもこれを責め、国主に訴える人こそ、仏弟子にして、真の僧であると説かれているのであります。

されば『法華初心成仏抄』には、

「末法の世には、無智の人に機に(かな)ひ叶はざるを(かえり)みず、(ただ)()ひて法華経の五字の名号を説いて持たすべきなり。其の故は釈迦仏、昔不軽(ふきょう)菩薩と云はれて法華経を弘め給ひしには、男・女・尼・法師がおしなべて用ひざりき。或は(ののし)られ(そし)られ、或は打たれ追はれ、(ひと)しなならず、或いは(あだ)まれ(ねた)まれ給ひしかども、少しも()りもなくして強ひて法華経を説き給ひし故に今の釈迦仏となり給ひしなり」(同一三一五頁)

と仰せであります。

釈尊ならびに不軽菩薩がそうであったように、法を弘めるに当たっては、様々な難が現れてくることは必定であります。否、むしろ難が現れてくることは、その法が正しいからであり、間違った教えでは、魔も驚きもしませんし、騒ぎもしません。また、襲ってもきません。私どもの信心が正しいからこそ、様々な難が襲ってくるのであります。

故に『兄弟抄』には、

「此の法門を申すには必ず魔出来(しゅったい)すべし。魔競はずは正法と知るべからず。第五の巻に云はく『行解(ぎょうげ)既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起こる、乃至随ふべからず(おそ)るべからず。之に随へば(まさ)に人をして悪道に向かはしむ、之を畏れは正法を修することを妨ぐ』等云云。此の釈は日蓮が身に当たるのみならず、門家の明鏡なり。謹んで習ひ伝へて未来の資糧とせよ」(同

九八六頁)

と仰せられているのであります。

私どもは「魔競はずは正法と知るべからず」との御金言をしっかりと心肝に染め、いかなる大難が競い起きようが決然として魔を打ち払い、折伏を行じていく時、必ず転迷開悟の大功徳を享受し、即身成仏の本懐を成就することができるのであります。

「されば仏法中怨の責めを(まぬか)れんとて、かやうに諸人に(にく)まるれども命を釈尊と法華経に奉リ、慈悲を一切衆生に与へて謗法を責むるを心えぬ人は口をすくめ(まなこ)(いか)らす」と仰せであります。されば「仏法中怨」すなわち、仏法のなかの怨であるとの責めを逃れようと思うならば、多くの人に憎まれても、命を仏様と法華経に奉り、慈悲を一切衆生に与えて、謗法の者を責めなければならないのであります。

もちろん、一向(いっこう)に謗法を責めれば、この道理が解らない者達か正法の者を(ののし)ったり、眼を(いか)らして怨をなすのは元より覚悟の上と決意して、妙法広布に生きることこそ今生(こんじょう)(ほま)れであります。まさに「魔競はずは正法と知るべからず」であります。

我々の折伏は、あくまでも邪義邪宗の害毒によって苦しんでいる人々を救済することが本義であり、したがって折伏においては、時に、こちらの真意が解らず、誤解されたり非難されることは多々ありますが、命を御本尊様に預け、慈悲をもって根気よく破邪顕正の折伏を続けていくことが極めて大事であることを銘記し、一層の折伏行に精進することが肝要であります。

次に「(なんじ)実に後世を恐れば身を(かろ)しめ法を重んぜよ。是を以て章安大師云はく『(むし)ろ身命を(うしな)ふとも教を(かく)さゞれとは、身は軽く法は重し身を(ころ)して法を弘めよ』と。此の文の意は身命をばほろ()ぼすとも正法をかくさゞれ、其の故は身はかろく法はおもし、身をばころすとも法をば弘めよとなリ」と仰せであります。まことに後世を恐れるならば、身命を軽んじて、法を重んじなければならない。このことを、天台大師の弟子である章安大師は「むしろ身命を失うとも教えを匿さざれとは、身は軽く法は重い、身を死しても法を弘めよ」と仰せであります。まさしく、この御文の意は「むしろ身命

を失っても、正法を滅ぼしてはならない。その故は、身は軽く法は重い。身を死しても法を弘めよということである」と仰せられているのであります。

大聖人様は『松野殿御返事』に、

「迹門には『(われ)身命を愛せず但無上道を惜しむ』ととき、本門には『自ら身命を惜しまず』ととき、涅槃経には『身は軽く法は重し、身を(ころ)して法を弘む』と見えたり。本迹両門・涅槃経共に身命を捨てゝ法を弘むべしと見えたり」(同一〇五一頁)

と仰せられ、また『乙御前御消息』には、

身軽(しんきょう)法重(ほうじゅう)死身(ししん)弘法(ぐほう)とのべて侯へば、身は軽ければ人は打ちはり(にく)むとも、法は重ければ必ず弘まるべし」(同八九八頁)

と仰せであります。

これらの御文意を拝するに、末代の衆生が真の幸せを築くためには、大聖人様の教えを忠実に守り、実践していくことでありますが、なかんずく、ただいまの御文にお示しあそばされているように、「我身命を愛せず但無上道を惜しむ」との御文、ならびに「身は軽く法は重し、身を死して法を弘む」との御文の精神をもって、一天広布を目指して折伏に励むことこそ、最も肝要であろうと思います。

そもそも折伏とは、正法を知らない人々に謗法の恐ろしさと御本仏日蓮大聖人様の教えの偉大さを教えていくことでありまして、これこそ相手を根本から救う最大の慈悲行であります。

故に『守護国家論』には、

「謗法の人を見て其の(とが)を顕はさゞれば仏弟子に非ず」(同一四五頁)

と仰せられているのであります。

不幸の最大の原因となる謗法を犯している人々が眼前に多くいるのを見て、知っていながら、その謗法の誤りを指摘しないようでは、大聖人の弟子とは言えません。そこに今、我々が何を差し置いても強いて折伏を行じていかなければならない大事なわけが存しているのであります。

宗門は先に、僧俗一致・異体同心して、第二祖日興上人御生誕七百七十年、法華講員五〇パーセント増の誓願を達成し、宗門挙げて奉祝大法要、さらに奉祝記念法要ならびに達成記念大会を盛大に奉修することができました。

これもひとえに、全国の法華講支部の指導教師ならびに講員の皆様方が異体同心・一致団結して、誓願達成を目指し、昼夜を(いと)わず真剣に折伏に励んでこられた結果であり、皆様方の御奮闘に心から敬意を表するものであります。この勝利の感動と喜びをもって、いよいよ次なる目標である平成三十三年・宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年、法華講員八十万人体勢構築へ向けて全力を傾注して、必ず誓願を達成し、もって仏祖三宝尊へ御報恩謝徳申し上げられますよう心から願うとともに、皆様方の御健勝とますますの信心倍増を心からお祈り申し上げまして、本日の法話といたします。

『諸法実相抄』にのたまわく、

「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に(あら)ずんば唱へがたき題目なり。日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつた()ふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。(あまつさ)へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を(まと)とするなるべし。ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給ふべし」(同六六六頁)

大白法 平成27年4月16日刊(第907号)より転載