不幸の原因

一、苦しみの原因は何か

仏教では、誰人も逃れることのできない苦しみとして、(しょう)(ろう)(びょう)()四苦(しく)を説いていますが、私たちの人生にはこの四苦のほかにも、様々な苦労や悩みが次々と(おそ)ってきます。この限りない苦悩(くのう)は、いったい何によって、どこから生まれてくるのでしょうか。もし苦悩の本源を究明し、その源の(はたら)きを変えることができるならば、私たちの人生から不幸や苦しみを取り(のぞ)くことができるはずです。

仏教では苦しみは悪業(あくごう)によって生じ、悪業は煩悩(ぼんのう)から生じると説いています。

二、煩悩(ぼんのう)とは何か

煩悩とは、梵語でklesa(クレーシャ)と言い、「心を(けが)すもの」「苦しめるもの」と(やく)されます。また漢訳(かんやく)では「(わく)」(まようこと)・「使()」(悪道にかりたてること)・「(せん)」(汚れ()まること)などと表わされます。また小乗教では煩悩(ぼんのう)の異名として「随眠(ずいみん)」という言葉を用います。これは、煩悩が表面に現われることなく心の奥に潜在(せんざい)し、本人の意思と関係なく(えん)に従って作用するところから名づけられたものです。

これらの解釈(かいしゃく)からも判るように、煩悩とは人間の心身を悩乱(のうらん)させて、成仏の正道を妨(さまた)げる作用のことです。

三、煩悩の種類

(じょう)(ゆい)(しき)(ろん)』には、煩悩について、基本となっている「根本(こんぽん)煩悩(ぼんのう)」と、そこから派生して起こる「(ずい)煩悩(ぼんのう)」とに区分して説いています。

根本煩悩とは、

(とん)(愛着すること)
(じん)(おこ)ること)
()(道理に暗く(おろ)かなこと)
(まん)(おご)り高ぶること)
()(法を信ぜず躊躇(ちゅうちょ)すること)
(けん)(邪悪な考えに(しゅう)すること)

ですが、このうち前の五つを五鈍(ごどん)使()といい、第三の癡を無明(むみょう)と言う場合もあります。

次に随煩悩としては、忿(ふん)(こん)(ふく)(のう)(しつ)(けん)(おう)(てん)(きょう)(がい)無慚(むざん)無愧(むき)惛沈(こんぢん)掉挙(じょうこ)不信(ふしん)懈怠(けだい)放逸(ほういつ)失念(しつねん)散乱(さんらん)不正(ふしょう)()の二十種が()げられています。

四、三惑(さんわく)とは何か

天台大師は『摩訶(まか)止観(しかん)』で、すべての煩悩((わく))を三種類に分けて説きました。これを見思(けんじ)塵沙(じんじゃ)無明(むみょう)の三惑と言います。

(1)見思(けんじ)(わく)

この惑は、見惑(けんわく)思惑(しわく)のことで、三界(さんかい)六道(ろくどう)苦果(くが)の因となるので「界内(かいない)(三界六道)の惑」と言い、また声聞(しょうもん)縁覚(えんがく)菩薩(ぼさつ)三乗(さんじょう)が共通して(ふく)すべき惑なので「通惑(つうわく)」とも言います。

見惑とは、物事の道理に迷う後天的な惑であり、思想的な過ちを言います。この見惑に五利(ごり)使()と五鈍使を合わせて十使(じっし)が挙げられます。五利使は、

身見(しんけん)(自我に執着(しゅうじゃく)する考え)
辺見(へんけん)(生命は死によって無となる、あるいは霊魂(れいこん)となって永遠に続くなどの一辺(いちぺん)(かたよ)る考え)
邪見(じゃけん)(因果の道理を無視する考え)
見取(けんしゅ)(けん)(前の三見に固執(こしつ)し、劣っているものを(すぐ)れていると見る考え)
戒禁(かいごん)取見(しゅけん)(仏法上、(いまし)められ禁じられている邪行(じゃぎょう)に固執する考え)

を言い、これらは思想的な迷いであり、正しい道理を理解すれば(ただ)ちに除くことができる鋭利(えいり)な煩悩なので「利使」の名がつけられています。

これに対して五鈍使は前に挙げた貪瞋癡慢疑であり、この惑は(あやま)ちに気付いても即時に消滅できる性質のものではないので、「鈍使」と言います。

次に思惑とは、「倶生(ぐしょう)(わく)」とも言い、物事に対して本能的に起こす感情の迷いであり、五鈍使の中の①貪・②瞋・③癡・④慢の四つを指します。

小乗教の修行によって見惑を断じた位を見道(けんどう)と言い、思惑を断じた位を修道(しゅどう)と言い、見思両方を断じた位を無学(むがく)(どう)とも()()(かん)()とも言います。

なお数量を言えば見惑に八十八使、思惑に八十一品あります。世間で除夜(じょや)(かね)などを例にとって百八煩悩などと言いますが、これは見惑・思惑による数量です。

(2)塵沙(じんじゃ)(わく)

この惑と第三の無明(むみょう)(わく)は、菩薩のみが断ずる惑なので「別惑(べつわく)」と言い、六道の域外(いきがい)の惑ですから「界外(かいげ)の惑」とも言います。

塵沙とは、(ちり)(すな)のように微細(びさい)で無量無数を表わした言葉です。

大乗の菩薩が衆生を化導し救済するときに様々な障害(しょうがい)が起こりますが、これに対処する菩薩は無量の法門に通達(つうだつ)する必要があり、それらを学ぶにしたがって起こる無数の惑を塵沙惑と言います。

(3)無明(むみょう)(わく)

これは、中道(ちゅうどう)法性(ほっしょう)の悟り(成仏)を妨げるすべての煩悩の根本となる惑です。円教では妙覚(みょうがく)(仏)の位に至るまでに四十二位の段階が定められていますが、その一つひとつに菩薩の断ずべき無明惑があり、最後の四十二品目の無明惑を「元品(がんぽん)無明(むみょう)」と言います。

大聖人は『治病(じびょう)大小(だいしょう)権実(ごんじつ)違目(いもく)』に、
元品(がんぽん)法性(ほっしょう)梵天(ぼんてん)帝釈(たいしゃく)等と(あら)はれ、元品の無明(むみょう)(だい)六天(ろくてん)魔王(まおう)と顕はれたり」(御書 一二三七頁)
(おお)せられ、成仏に到達(とうたつ)する直前には元品の無明が第六天に姿を変えて、成仏を妨げるためにあらゆる手段を尽くすことを説かれています。

五、煩悩の原因は何か

私たちの苦しみは煩悩によって起こるのですが、では煩悩はいったい何に起因するのでしょうか。

()()()()(ろん)』に、

(いわ)く六種の因あり、一には所表(しょひょう)()る、二には所縁(しょえん)に由る、三には親近(しんごん)に由る、四には邪教(じゃきょう)に由る、五には教習(きょうしゅう)に由る、六には作意(さい)に由る」

とあります。私たちが邪宗教を破折(はしゃく)し、また謗法(ほうぼう)に親近することを戒める理由は、邪教や謗法が煩悩を起こす悪縁となり、不幸の原因となるからなのです。

六、煩悩(そく)菩提(ぼだい)

小乗教では煩悩を(ほろ)ぼさなければ悟りは得られないと説き、身体まで(めっ)する()(しん)(めっ)()を最高の境地(きょうち)としますが、法華経の結経(けっきょう)である(かん)()(げん)()(さつ)(ぎょう)(ぼう)(きょう)では、
「煩悩を断ぜず、五欲を離れずして、諸根(しょこん)(きよ)め、諸罪(しょざい)滅除(めつじょ)することを()」(法華経 六一〇頁)
と説き、煩悩を離れるのではなく、そのまま菩提(ぼだい)に転換させていくことを教えています。

日蓮大聖人は『当体(とうたい)義抄(ぎしょう)』に、

「正直に方便(ほうべん)()(ただ)法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩(ぼんのう)(ごう)()三道(さんどう)法身(ほっしん)般若(はんにゃ)解脱(げだつ)の三徳と転じて」(御書 六九四頁)

と仰せられ、清浄な信心で三大(さんだい)秘法(ひほう)本門(ほんもん)戒壇(かいだん)(だい)()本尊(ほんぞん)唱題(しょうだい)するとき、私たちの煩悩はそのまま成仏の因となり、凡夫(ぼんぷ)の身のまま仏の境界に至ることができると御指南されているのです。

大白法 平成27年4月16日刊(第907号)より転載