平左衛門の状の策謀により、日蓮大聖人を斬首に処す計画が企てられ、文永八(一二七一)年九月十二日酉の刻(午後七時)、大聖人は、鎌倉の評定所より武士の警固のもと竜の口の刑場へと護送されました。
途中で大聖人が遣わした熊王丸によって、この知らせを受けた四条金吾は、兄弟と共に駆けつけてお伴し、大聖人一行は、刑場に到着したのです。
刑場に到着すると、にわかに武士たちの動きが慌ただしくなり、いよいよ斬首の時が来たのでした。四条金吾は「只今なり」と合掌しながら泣き崩れたのですが、これを御覧になった大聖人は、「不覚の殿方である、これほどの悦びを笑いなさい、どうして約束を違えられるか(趣意)」(御書一〇六〇頁)
と、四条金吾に日頃の不惜身命の覚悟を促され、頸の座に悠然と端座されたのです。そして、武士の一人が太刀を抜き、まさに大聖人の頸を切らんと振りかざした時、突如、月のような大きな光り物が江ノ島の方角より飛来したのです。時に丑寅の時刻(午前三時頃)。その光り物は、暗闇の中で居並ぶ人々の顔をはっきり映し出しました。これにより、大聖人の頸を切ろうとした太刀取りは、目が眩んでその場に倒れ伏し、周りを囲んでいた武士たちも恐怖のあまり一町(約百メートル)ほども走り逃げ、ある者は馬から降りて平伏し、またある者は馬の上でうずくまり、恐れおののくばかりでした。
この時、大聖人は、
「いかに殿方、これほどの大罪ある召人から遠のくのか、近くに寄って来られよ、近くに寄って来られよ(中略)こうして夜が明けてしまったらどうするのか、頸を切るなら早く斬りなさい、夜が明けてしまえば見苦しいではないか(趣意)」(同)
と声高らかに呼びかけられました。しかし、もはや近づく者は一人もいませんでした。
そして長い沈黙の後、大聖人は、武士の案内により依智(神奈川県厚木布)の本間邸へと向かわれたのです。
翌十三日の正午頃、本間邸に到着された大聖人は、昨夜以来の任務で疲れている警固の武士たちに酒を振る舞い、労をねぎらわれました。
この大聖人の御慈悲に対し、武士たちの中には、昨夜の竜の口での出来事からも、自分たちが信じている念仏の信仰に疑問を抱く者も現われたのです。
やがて、大聖人の警固は幕府の武士から本間家の武士に替わり、竜の口よりお伴してきた四条金吾兄弟もひとまず鎌倉へ帰りました。
その夜、戊の刻(午後九時頃)、大聖人は武士たち数十人が警固する庭において、夜空に輝く月に向かい、法華経の行者を守護すると誓状を立てた月天子に対して、声高に守護の任を全うするよう諫暁されました。そして、諌暁が終わるや否や、月明かりの夜空から大きな明星が降り耶って庭の梅の木にかかり、これを目の当たりにした武士たちは、驚きのあまり、邸の裏に逃げ隠れるなどの有り様だったのです。
大聖人は、光り物の飛来について、頸の座より数日後に御述作の『四条金吾殿御消息』に、
「三光天子の中で月天子は光り物となって現われて竜の口の頸の座を助け、明星天子は四・五日前に下ってきて日蓮に見参したのである。今は日天子だけが残っている。必ず守護があると心強く思っている。『法師品第十』には『則ち変化の人を遣わして、之が為に衛護と作さん』と、疑ってはいけない。『安楽行品第十四』には『刀杖も加えず』とあり、『普門品第二十五』には『刀尋いで段々に壊れなん』と説かれている。これらの経文はよもや虚言ではない(趣意)」(同 四七九頁)
すなわち、頸の座での光り物は、諸天のうちでも三光天子の月天子の守護であったことを明かし、また、法華経の行者は種々の難に値うが、同時に必ず諸天の守護を受けることは法華経の文に明らかであると御教示されています。
さて、先述の竜の口法難は、大聖人の御生涯の中でも、最も重要な意義を持つ法難でした。
それは、この法難を境として、上行菩薩の再誕日蓮としての仮の姿(垂迹身)を発って、久遠元初の自受用身(ほしいままにうけもちいるみ)即日蓮という真実の姿(本地身)を顕わされたからです。これを「発迹顕本」と言います。
大聖人は、竜の口法難の後、御配流となられた佐渡において『開目抄』を御述作されますが、その中で御自身の発述顕本について、
「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて、返る年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば、をそろしくてをそろしからず。みん人、いかにをぢぬらむ」(同 五六三頁)
と仰せられています。
この御文の意味を、総本山第二十六世日寛上人の『開目抄文段』から拝すると、
「『子の時』とは、大聖人が鎌倉に引き出されて竜の口に向かった時刻である。それは『種々御振舞御書』に『さて十二日の夜、武蔵守のあづかりにて、夜半に及んで頸を切られんがために鎌倉を出でしなり』と仰せである。夜半とはすなわち子の時である。『丑の時』とは、正しく頸の座に引き据えられた時である。それは『妙法比丘尼御返事』に、『鎌倉竜口と申す処に九月十二日の丑の時に頸の座に引きすえられて候ひき』と仰せである。今『子丑』と言われたのは、鎌倉から引き出され竜の口の頸の座に据えられるまでの時刻を挙げられたのである。『頸はねらる』とは、まさに頸が刎られようとしているということである。例えば、『普明、頸を刎ねらる』(大智度論)の文と同様である。これは『及加刀杖』(勧持品)の文に当たり、『魂魄佐渡に到りて』とは、『数々見擯出』(勧持品)の文に相当する。故に日蓮大聖人は、『不愛身命、但惜無上道』の法華経の行者であることは明白である(趣意)」(御書文段一六六頁)
と御教示されています。
しかしこれは、まだ一往、地涌上行菩薩の再誕である末法の法華経の行者としての御立場を示されたものです。そして、より深い意義として、
「此の文の元意は、蓮祖大聖は名字凡夫の御身の当体、全く是れ久遠元初の自受用身と成り給い、内証真身の成道を唱え、末法下種の本仏と顕われたもう明文なり」(同一六七頁)
と、大聖人の名字凡身の当体が、内証久遠元初の自受用身として顕われたことの明文であると御教示されています。
法難のあった丑寅の時刻について、丑の刻(午前二時)は陰の終わりにして死の終わりであり、寅の刻(午前四時)は陽の始めにして生の始めであることから、陰陽生死の中間を意味しています。ここに極めて重要な仏法上の意義があり、『開目抄』の文意としては、子丑の刻は凡身の死の終わりなので「頸はねられぬ」と仰せになり、寅の刻は久遠元初の自受用身の生の始めなので「魂魄佐土の国にいたりて」と仰せられているのです。
また、
「娑婆世界の中には日本国、日本国の中には相模国、相模国の中には片瀬、片瀬の中には竜口に、日蓮が命をとゞめをく事は、法華経の御故なれ寂光土ともいうべきか」(御書 四七八頁)
と、大聖人が竜の口を指して常寂光土(仏土)であると仰せられているように、竜の口以後の大聖人の御振る舞いは、久遠元初の御本仏の御立場としての御振る舞いなのです。
この竜のロ法難における発迹顕本に当たって、刑場へ向かう途中に大聖人が、八幡宮の社頭において、諸天善神(八幡大菩薩)に対して法華経の行者を守護するよう諌めたこと、また、斬首の時刻が折しも陰陽生死の中間であったこと、さらに斬首の瞬間に不思議な光り物の出現によって、鎌倉幕府の権力をもってしても斬首することができなかった厳然たる事実に、御本仏大聖人の様々な力用を拝することができるのです。
私たちは、この発迹顕本の意義を深く拝すと共に、大聖人の諸宗破折と死身弘法の精神を心肝に染め、さらなる破邪顕正の折伏に邁進してまいりましょう。
大白法 令和元年10月1日刊(第1014号より転載)