日蓮大聖人の御生涯㉞

弘安の役と園城寺申状

 

 前回は、弘安三(一二八〇)年の鶴岡八幡宮の炎上まで学びました。今回は同じく、弘安三年から四年の御振る舞いを学びましょう。

 

 南条七五郎の死亡

 

 文永二(一二六五)年、南条兵衛七郎が亡くなってから、母尼によって子供たちが養育されていました。

 そして、文永十一年に日蓮大聖人が身延に入られるや、直ちに、青年になった南条時光殿が御供養の品々を携えて大聖人のもとへ参じられました。兵衛七郎の子らは、信仰の面においても母尼の教育を受け、純粋に信仰に励んでいたのです。

 以降、南条家に対する大聖人の書状は時光殿宛のものが主となりますが、時光殿が上野南条家の統領になっていたことによると考えられます。

 総本山大五十九世日亨上人の『南条時光全伝』には、

 「興尊は、この堂(逗留された現在の下之坊)で時光はじめ一家下人までも集めて法談をなし、大聖人の賜わりし御書を読みきかせ、註解をもなさったのである」(南条時光全伝 二㌻)

とあり、日興上人が下向されるたびに、家族や下人までもが集まって、大聖人より戴いた御書を拝読し、日興上人からその教えを学び、信心を深めていったことが判ります。

 前回までに学んだ通り、熱原法難の際に、苦難に直面した人々を支援したため重い税をかけられましたが、時光殿をはじめとする南条家の人々の信仰はけっして揺らぐことはなかったのです。

 しかし、弘安三年九月五日、時光殿の弟の七郎五郎が事故で亡くなってしまいました。七郎五郎は時光殿の六歳年下で、この頃十五、六歳の青年でした。一説によると水難事故と伝えられていますが、南条家は深い悲しみに沈んでしまいました。

 報せを受けられて大聖人は、

 「此の六月十五日に見奉り候ひしに、あはれ肝ある者かな、男なり男なりと見候ひしに、また見候はざらん事こそかなしくは候へ」(御書 一四九六㌻)

 「抑故なんでうの七ろうごらうどのゝ事、いままではゆめかゆめか、まぼろしかまぼろしかとうたがいて、そらごとゝのみをもひて候へば、此の御ふみにもあそばされて候。さてはまことかまことかと、はじめてうたがいいできたりて候」(同 一四九八㌻)

と、同年六月に対面した時に、その立派な男ぶりに将来を頼もしく思われていたこと、それなのにこのたびのことはまことであろうか、と仰せられ、南条家の人々と同じく大きな悲しみを感じられていたのでありました。

 以降は、母尼宛の御書が増えました。これは、子を失った母尼を思いやられ、心を砕いてその悲しみを慰められると共に、いよいよ信心を決定させ、臨終の後は同じ霊山へまいられるようにと励まされるためです。

 南条家の人々は、七郎五郎を失った悲しみの中にも、大聖人の温かい御言葉に励まされ、ますます信心に励んでいったのです。

 

弘安の役と曽谷入道

 

 さて、文永十一年に大きな犠牲を払いながらも蒙古を撃退した幕府は、その後、商船などから情報を収集しつつ、九州の防御を固めました。

 中国大陸では、蒙古と戦っていた南宋が、弘安二年二月に滅亡し、同年に蒙古の使者が日本へと遣わされてきました。幕府はこの時の使者を博多で斬首しますが、いよいよサイドの蒙古襲来が近づいてきたのです。

 そして、弘安四年五月、再び蒙古軍が押し寄せました。蒙古の軍勢は元と高麗からなる東路軍と、南宋軍を組織した江南軍とに分かれ、壱岐で合流して一挙に博多を攻める計画になっていました。

 五月三日に高麗を出発した東路軍は、二十一日対馬に上陸し、二十六日には壱岐に押し寄せました。応戦した松浦党(肥前の武士団)の人々はたちまち破れ去り、蒙古軍は島民を虐殺するなどの非道を尽くしたのです。

 東路軍は、江南軍の合流を待たずに六月六日に博多湾に志賀島に攻め寄せましたが、強固な防塁を利用した警固の武士たちに上陸を阻まれ、壱岐へと引き返しました。

 襲来の報せは逐次伝えられたようで、大聖人は六月十六日、一門の人々に書状を認め、国の一大事にあって予言の的中を誇ることがないように厳しく戒められました。

 また、『曽谷殿二郎入道殿御報』には、

 「有漏の依身は国王に随う故に此の難に値わんと欲するか。感涙押さへ難し、何れに代にか対面を遂げんや。(中略)今生には修羅道に交はるとも後生は必ず仏国に居せん」(同 一五六四㌻)

とあります。有漏の依身とは凡夫の身のことです。ここでは、曽谷入道が国主に従う身であるために蒙古の襲来に遭うと仰せられ、あたかも今生の別れになるかも知れない様子が窺われます。おそらくは、曽谷入道が、幕府の命により鎮西に派遣されることになっていたのでしょう。

 伝え聞く蒙古は強大な軍で、激しい戦になることが予想されるところから、戦場に向かうであろう曽谷入道に対し、動揺を落ち着かせ、信心を決定させるために、この書を書かれたと拝することができます。

 蒙古軍はようやく東路軍と江南軍が合流し、徐々に肥前国鷹島へと向かいました。しかし、七月三十日の夜半から吹き始めた風雨がたちまち暴風雨となり、閏七月一日の暁にかけて海が猛烈に荒れ、蒙古軍を退散させたのです。

 そしてこの一日は、ちょうど大聖人が曽谷入道に書状を認められた日でありました。

 

園城寺申状(日目上人のこと)

 

 暴風雨による蒙古軍撃退がなると、異国調伏の祈祷を行っていた寺社は盛んに神威や効験を誇示し出しました。

 これに対し大聖人は、例年通りにやってくる秋の台風によって蒙古の軍船が破損したのであり、祈祷の結果ではないと仰せられています。(『富城入道殿御返事』御書 一五七二㌻)

 蒙古が撤退したとはいえ、その被害は大きなものがありました。攻め滅ぼされた壱岐と対馬の惨状はもとより、警固のために御家人も非御家人も駆り出され、また長大な防塁を築くのにも費用がかかっていました。しかも攻めてきた蒙古の軍勢も、もとは蒙古に滅ぼされた高麗や宋の人々が多く含まれていたのです。

 こうした現実もすべて、人々が正法を信仰しないために邪法によって国が乱れているところに原因があるのです。

 大聖人はかつて三度の国諌をされ、それを聞き入れられなかったために身延に入られました。しかし、再度の蒙古襲来による人々の苦しみをご覧になり、朝廷への奏上を決意されたのです。そして、申状を認めて日興上人に託して、日目上人に代奏を命じられました。これが『園城寺申状』です。

 日目上人は、文永十一年の十五歳のとき、伊豆の走湯山で日興上人と出会って入門し、建治二(一二七六)年四月に出家得度をして身延に登り、修行に励んでおられました。その後、常随給仕の誠を尽くしながらも、教学を研鑽して問答や論議に通達していきました。大聖人は日目上人を深く信頼され、その信行を認められて御本尊を授与され、さらに朝廷への代奏という大役を命じられたのでした。

 なお、弘安五(一二八二)年に再び代奏された折、後宇多天皇より、

 「朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」

と御言葉を賜り、下し文を下賜されましたが、この申状と下し文は残念ながら日目上人御遷化の後、西山に伝わって紛失したと伝えられています。

 しかし、立正安国の精神は受け継がれ、代々の御法主上人によって、幕府や朝廷へ申状が奏進されていったのです。

(令和3年10月1日 第1062号より転載)