歴劫修行と即身成仏
 歴劫修行とは、菩薩が成仏するために、無限にも等しい長い時間を、数えきれないほど生まれ変わりながら修行することです。法華経以前に説かれた爾前経では、成仏のためには歴劫修行が必要であると説かれていました。
 これに対して即身成仏とは、速疾頓成ともいい、法華経の功徳により、すべての衆生がその身のままで速やかに(疾く)成仏することをいいます。

爾前権教における菩薩の歴劫修行
 爾前経における菩薩の歴劫修行には所説がありますが、『大智度論』には、菩薩が菩提心を発してから仏になる(作仏)までの期間が三阿僧祗劫であると説き、釈尊や諸仏もこれと同じであるとされます。
 「劫」とは、計算で求めることができないほどの長い時間のことです。また阿僧祗とは、十の五十九乗(算用数字の場合、1の後にゼロが五十九個連なる数)とされます。阿僧祗劫とは、劫の阿僧祗倍、三阿僧祗劫はその三倍です。菩薩が成仏するのに要する時間は、途方もない時間なのです。しかもこの長い時間、菩提心を持ち続け、何度生まれ変わっても、ひたすら修行し続けなければなりません。
 日蓮大聖人は『一代聖教大意』で、三蔵の菩薩は、「三祗百劫」、通教の菩薩は「動喩塵劫」、別教の菩薩は「多倶低劫」を経て成仏すると示されます。〔※1〕
 まず、蔵教の「三祗百劫」ですが、「三祗」は三阿僧祗劫、「百劫」は百大劫の意です。初めに三阿僧祗劫の間、六波羅蜜〔※2〕の行を修して衆生を済度し、次いで百大劫に及ぶ福行によって、三十二相といわれる仏の姿を身に具えるというものです。
 次に、通教の「動喩塵劫」とは、「動もすれば塵劫を喩ゆ」と読み下します。「塵劫」とは、教え切れない塵の数ほどの劫という意味です。通教の菩薩が三界に生じて利他行を修する期間が、塵劫を超えるほど長い時間であるということです。「動喩塵劫」は、通教の菩薩の位に十地があるうちの第八地・第九地の菩薩が修行に要する時間ですので、成仏するのに要するすべての時間は、この比ではありません。
 次に別教の「多倶低劫」とは、倶低は千万または十万・百万・億の意で、多倶低劫は多くの倶低の劫を意味します。別教の菩薩は成仏するまでに五十一の行位を経て第五十二位〔※3〕の妙覚の仏位に至ると説かれますが、途中の五十一位それぞれに多倶低劫を要するとされるのです。
 このように爾前経では、果てしない膨大な時間をかけ、段階的に真理を体得して仏に成ることが説かれました。

無量義経における歴劫修行の否定
 釈尊が法華経の序分として説かれた無量義経には、
「四十余年には未だ真実を顕さず」(法華経 二三㌻)
と、法華経以前に説いた爾前経が方便で、未だ真実の教えではないとし、
「方等十二部経、摩訶般若、華厳海空を説いて、菩薩の歴劫修行を宣説せし」(同 二六㌻)
「無量無辺不可思議阿僧祗劫を過ぐれども、終に無上菩提を成ずることを得ず」(同 三二㌻)
と、これまでに説いた爾前の歴劫修行では、結局のところ成仏することができないと否定されています。

法華経こそ一切衆生即身成仏の教え
 爾前経では、歴劫修行とはいえ、菩薩のみが成仏できると説かれて、声聞・縁覚の二乗は絶対に成仏できないとされていました。
 しかし法華経『方便品』に、
「如来は但一仏乗を以ての故に、衆生の為に法を説きたもう。余乗の若しは二、若しは三有ること無し」(同 一〇三㌻)
と、仏が説くのは一仏乗の成仏の道だけで、爾前経において説かれていた三乗(声聞・縁覚・菩薩に対する教え)は法華経を説くための方便と明かされます。
 そして『提婆達多品』では、法華経の大功徳として、八歳の竜女が蛇身を改めることなく瞬時に成仏を遂げるという、即身成仏の現証が示されました。

事の即身成仏
 大聖人は『妙一女御返事』に、
「法華経の即身成仏に二種あり。迹門は理具の即身成仏、本門は事の即身成仏なり。今本門の即身成仏は当位即妙、本有不改と断ずるなれば、肉身を其のまゝ本有無作の三身如来と云へる是なり」(御書 一四九九㌻)
と説かれています。つまり、迹門の『提婆達多品』で竜女の即身成仏の現証が示されたとしても、それは理論上のことであり、本門『寿量品』において師弟の三世常住と娑婆即寂光が明らかとならなければ、一切衆生の成仏は叶いません。
 したがって真実の事の即身成仏は本門にあるのです。「当位即妙、本有不改」とは、十界の衆生がもとの姿のまま妙理を顕わし、即身成仏を遂げることです。

即身成仏の本源は久遠元初にあり
 大聖人は『三世諸仏総勘文教相廃立』に、
「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき」(同 一四一九㌻)
と、成仏の本源は、久遠元初の御本仏が凡夫の姿のまま即座開悟を遂げたところにあると示されています。また『当体義抄』(御書六九五㌻)には、その御本仏が自身の因果不思議の悟りに妙法蓮華経と名付け、その妙法蓮華経を師として修行し、因果を同時に感得して即身成仏を遂げたと説かれています。すなわち成仏とは、妙法蓮華経を受持して即身成仏を遂げることにあり、それ以外の成仏というのは、実は存在し得ないのです。

三大秘法こそ即身成仏の大法
 大聖人は『三大秘法稟承事』に、
「実相証得の当初修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」(同 一五九三㌻)
「今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に介爾計りの相違なき、色も替はらぬ寿量品の事の三大事なり」(同 一五九五㌻)
と示され、御本仏が実相証得の当初に修行した妙法蓮華経とは、三大秘法であり、末法の日蓮大聖人の所行も全く同じであると説かれています。また『本因妙抄』(御書一六八二㌻)には、大聖人が唱え出だされた題目は、久遠元初自受用身の題目を直ちに唱えるものであると説かれています。
 すなわち、即身成仏の大利益は、ただ大聖人の下種仏法にのみ存するのです。

 

*1
 三蔵教は小乗の低い教え。通教は声聞・縁覚・菩薩の三乗に通ずる大乗教の初門。別教は菩薩のみに説かれた大乗教。

*2 六波羅蜜
 菩薩の行う布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六種の修行。

*3 菩薩五十二位
 菩薩の修行の階位で、十信・十住・十行・十回向・十地・等覚の五十一位があり、最後に元品の無明を断じて仏位の妙覚となる。

(大白法 令和5年10月16日 第1111号転載)