5月度 広布唱題会の砌
(令和6年5月5日 於 総本山客殿)
本日は、五月度の広布唱題会に当たり、皆様には全国的な新型コロナウイルス感染症の蔓延によって何かと不便のなか、万難を排して唱題会に参加され、まことに御苦労さまです。
さて『南条兵衛七郎殿御書』を拝しますと、
「いかなる大善をつくり、法華経を千万部書写し、一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経のかたきをだにもせめざれば得道ありがたし。たとへば朝につかふる人の十年二十年の奉公あれども、君の敵をしりながら奏しもせず、私にもあだまずば、奉公皆うせて還ってとがに行なはれんが如し。当世の人々は謗法の者としろしめすべし」(御書 322㌻)
と仰せであります。
この御文は、文永元(1264)年12月、駿河国富士郡上野(現在の静岡県富士宮市)の地頭、南条時光殿の父君である南条兵衛七郎殿へ与えられた御書の一文であります。
すなわち、たとえ法華経を千万部も書写し、一念三千の御法門を会得された人であっても、法華経の敵である邪義邪宗の謗法を見て、そのままにして折伏をしないようでは、得道することはできないと厳しく仰せられているのであります。
まことに厳しい御指南でありますが、私どもの信心において、邪義邪宗の謗法をそのままにしておくことは、謗法厳誡の宗是の上からもけっしてあってはならないことであります。
私どもの信心は、自行化他にわたる信心こそ肝要であり、
「自行計りにして唱へてさて止みぬ」(同 1594㌻)
と仰せのように、自行だけの信心、すなわち自分だけの信心、独善的な信心、利己的な信心は、本来の自行化他の信心から見て「さて止みぬ」と、大聖人様は厳しく誡められているのであります。それは例えば、朝廷に十年、二十年と仕えている者が、朝廷に対して敵対行為をなす者がいることを知りながら、それを上の者にも伝えず、自らも戒めずにいることは、今まで朝廷に対して積んできた功績を無にしてしまうようなものであると仰せられ、厳しく戒告されているのであります。
されば、今日、末法濁悪の世相そのままに、間違った教えが跋扈し、混沌とした様相を呈しているまさにかくなる時こそ、私どもは身軽法重・死身弘法の御聖訓を拝し、勇猛果敢に一天四海・皆帰妙法を目指して、一意専心、折伏を行じていかなければならないのであります。
大聖人様は『如説修行抄』に、
「正像二千年は小乗・権大乗の流布の時なり。末法の始めの五百歳には純円一実の法華経のみ広宣流布の時なり。此の時は闘諍堅固・白法隠没の時と定めて権実雑乱の砌なり。敵有る時は刀杖弓箭を持つべし、敵無き時は弓箭兵杖なにかせん。今の時は権教即実教の敵と成る。一乗流布の代の時は権教有って敵と成る。まぎらはしくば実教より之を責むべし。是を摂折の修行の中には法華折伏と申すなり」(同 672㌻)
と仰せられ、悪世末法の今、まさに今日の如き邪義邪宗が跋扈し、五濁乱漫として混迷を極めている時、私どもは一意専心、一天広布へ向けて全力を傾注して折伏を行じていくことがいかに大事であるかを認識され、いよいよ講中一結・異体同心して、たくましく前進するよう訓誡あそばされているのであります。
よって『法華初心成仏抄』には、
「仏になる法華経を耳にふれぬれば、是を種として必ず仏になるなり。されば天台・妙楽も此の心を以て、強ひて法華経を説くべしとは釈し給へり。譬へば人の地に依りて倒れたる者の、返って地をおさへて起つが如し。地獄には堕つれども、疾く浮かんで仏になるなり。当世の人何となくとも法華経に背く失に依りて、地獄に堕ちん事疑ひなき故に、とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし」(同 1316㌻)
と、末法本未有善の衆生に対しては「とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし」と仰せられ、あらゆる機会を逃さず、相手に声を掛け、その心田に妙法を下種し、折伏を行じていくことがいかに大事であるかを御教示あそばされているのであります。
されば、皆様方には今日の混沌たる状況を見て、この窮状を救うべく、まさに今こそ、講中一結・異体同心して、妙法広布へ向けて決然として折伏を行じ、一天広布へ向けていよいよ精励されますよう心からお祈りし、一言もって本日の挨拶といたします。
(大白法 令和6年5月16日 第1125号転載)