布教講演 全国布教師 妙重寺住職 早瀬義栄御尊師

皆さん、こんばんは。

ただ今ご紹介をいただきました、静岡県浜松市の妙重寺でご奉公をさせていただいております早瀬義栄と申します。どうぞ宜しくお願いいたします。

本日は、御法主日如上人猊下大導師のもと、御霊宝虫払大法会が厳粛かつ盛大に()り行われ、まことにおめでとうございます。

皆様には、第二祖日興上人御生誕七百七十年、法華講員五十パーセント増の御命題を見事に完遂され、また十日間にわたる奉祝記念法要並びに達成記念大会も大成功裏に終わり、平成三十三年・宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年、法華講員八十万人体勢構築の御命題に向かって、心新たに出陣をされたことと存じます。

御法主上人猊下は、一人ひとりに信心の真の喜びと一生成仏という絶対の境界を得させようと、有り難くも私たちに御命題をくださっているのであります。

されば、これからの平成三十三年の闘いこそが、法華講の真価を問われる闘いになることは必定(ひつじょう)であります。

この時に当たり、自らの信心を見つめ直し、地涌の眷属(けんぞく)としての使命と自覚のもとに、さらなる折伏戦に努めようではありませんか。

大きく人生変える“縁”

さて、私は「四法成就の信心で折伏行の実践を」と題して、少々お話をさせていただきますので、どうぞ、しぱらくの間、ご辛抱のほど、宜しくお願いいたします。

大聖人様は『崇峻天皇御書』に、

「人身は受けがたし、(つめ)の上の土。人身は持ちがたし、草の上の露。百二十まで持ちて名をくた()して死せんよりは、生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」(御書 一一七三頁)

と仰せであります。今、受け難き人身に生を受け、()い難き仏法に巡り合い、信心をさせていただいております。

私たちが、生きていることを生活と言い、また、生活とは生命(いのち)を活かすことであります。生活は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏界の十界の生命が活動している状態を言うのであります。

そうしたそれぞれの命は、縁によって現われるのであります。

私たちは、それぞれに顔も体も、性格も能力も、境遇も違うのは、過去世からの因縁によるものであります。

大聖人様は『開目抄』に、心地観経を引かれ、

「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」(同 五七一頁)

と仰せです。

あらゆる現象には、原因と結果があります。仏教では、この原因の他に「縁」を説きます。

そこで、この出合いの縁によって、全く違う人生を送ることになるという『三人の兄弟』の話を紹介します。

昔ある所に、三人の兄弟が住んでおりました。いくら働いても一向に生活は楽になりません。そこで三人は相談し、田舎の生活に見切りをつけ、都へ行って働こうということになりました。

三人連れ立って都へと向かいましたが、しばらくして三人は、それぞれ都へ通じる三本の分かれ道に出合い、どの道を進むかで意見が分かれてしまいました。

仕方なく三人は、それぞれ別の道を進んで都へ行くことにしました。

そして十年の月日が流れました。

その頃、都では盗賊が街を荒らし回っていました。

ある日、都のある長者の家に盗賊が押し入りました。しかし、かねてより盗賊を追っていた役人の待ち伏せによって、とうとう捕らえられてしまいました。

盗賊と役人、そして恐る恐る顔を出した、その家の長者の三人が、お互い顔を合わせて「あっ!」と声をあげて驚きました。

かつて十年前、成功を誓って別れた三人の兄弟だったのです。

同じ(こころざし)を持って出発した三人の人生は、十年の月日によって大きく変わってしまったのです。長男には長者となる、次男には盗賊となる、三男には役人となる縁があったに違いありません。

同じように、私たちがいくら幸せになりたいと願っても、出合う縁によって、全く違う人生になってしまうのであります。

尊い生命活かし切る道

このことを深く考えるとき、自分の()すべき道がはっきりとしてくるのであります。自分の境遇を嘆く前に、まず自分自身を深く見つめ、自己の境界を高めるよう努力すべきであります。

私たちの生命には、「仏界の生命」が具わっております。その「妙法の生命を縁によって活かす」ということが大切なのであります。

大聖人様は、この妙法の尊い生命を私たちに知らしめ、いかに活かし切っていくかを教えられております。

『観心本尊抄』に、

「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然(じねん)に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」(同 六五三頁)

と、十方三世の諸仏の一切の功徳を三大秘法の御本尊様に収め、末法の一切衆生のために留め置かれたのであります。

日興上人は『遺誠置文』に、

於戯(ああ)仏法に()ふこと(まれ)にして、(たと)へを曇華(どんげ)(はなぶき)に仮り類を浮木の穴に比せん、尚以て()らざる者か。(ここ)に我等宿縁深厚なるに依って幸ひに此の経に遇ひ奉ることを()」(同 一八八三頁)

と仰せです。

私たちは、仏説の一眼の亀、優曇華(うどんげ)に譬えを借りるまでもなく、得難い人間に生まれ、三大秘法の御本尊様を受持することができたことに報恩感謝し、御題目を唱えることのできる喜び、そして、もったいなくも仏様のお使いとして折伏をさせていただける福徳を知らなければなりません。

そこで、法華経の最後の『普賢菩薩勧発品第二十八』に説かれる、本題の「四法成就の信心」について申し上げたいと思います。

この品は、法華経の結論であり、法華経を要約して再び説かれたことから再演法華とも称されております。

修行における四つの大事

いよいよ法華経の説法が終わろうとするとき、はるばる東方の国から普賢菩薩が、他の菩薩と連れ立って釈尊を訪ね、「釈尊の滅後は、どのように信心修行したら法華経を体得し成仏できるか」を質問します。そこで釈尊は、法華経の教えを修行する上で大切な事柄を、「四法」にまとめて説かれたのであります。

四法とは、一に「諸仏に護念せられ」、二に「諸々の徳本を()え」、三に「正定聚(しょうじょうじゅ)に入り」、四に「一切衆生を救う心を発す」の四つであります。

一に「諸仏に護念される」とは、諸仏に護られ、念じられているという絶対の確信を持つことであります。

大聖人様は『報恩抄』に、

「日蓮が慈悲曠大(こうだい)ならば南無妙法蓮華経は万年の(ほか)未来までもながる(流布)べし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ」(同 一〇三六頁)

と仰せであります。

日寛上人は、これを大聖人様が主師親三徳、末法下種の御本仏であることを証された御文であると御指南であります。

私たちは、大聖人様に常に守られ、導かれ、慈愛されているという、仏様の大慈大悲を確信することであります。そこに一切の不安も取り除かれ、安心して仏道修行もでき、成仏の境界を開いていくことができるのであります。

私たちが朝夕唱える『自我偈』には、

「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」(法華経 四四三頁)

とあり、仏様は、いつも私たちの成仏を願い、念じてくださっているのであります。

それ故、私たちは、仏様にお喜びいただける信心をさせていただくことが大事であります。また、仏様に生かされている命であることを思い、御報恩感謝の信心をさせていただきましょう。

二に「諸々の徳本を殖える」とは、多くの善根を積むことであります。成仏の境界を得るためには、唱題・折伏に努め功徳善根を積んでいくことであります。

仏教では、因果の理法、すなわち善因善果・悪因悪果のすべては、自らの身口意の三業による善悪の行為によると説きます。

善い結果が生まれるならば、自らがよい種を()いた結果であり。悪い結果が生まれるならば、自らが悪い種を蒔いた結果であります。因果応報と言って、自らの振る舞いは、全部自分に返ってくるのであります。これが因果の道理であります。

先にも拝しましたが、大聖人様は、

「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然(じねん)に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」(御書 六五三頁)

と仰せです。

したがって私たちは、三大秘法の御本尊様を受持信行することが最高の功徳善根を植えることになるのであります。

よって、常に求道の心を燃やし、無始以来の謗法罪障消滅のためにも、自行化他の信心である唱題・折伏・御講参詣・ご登山・御供養等に励みましょう。

三に正定聚とは、正しい教えを信じ必ず成仏するということが定まっている人を言い、その集団に入ることであります。

これに対し、誤った教えを信じ悪道に赴くことが定まっている人たちを邪定聚と言います。その中間の、どちらにも定まらない人を不定聚と言うのであります。

こうした人々の誤りを正し導いていくのが、正定聚に入っている人の使命であります。

大聖人様は『生死一大事血脈抄』に、

「総じて日蓮が弟子檀那等自他(じた)彼此(ひし)の心なく、水魚の思ひを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり。然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり。若し然らば広宣流布の大願も叶ふべき者か」(同 五一四頁)

と仰せであります。

日蓮正宗の信心の根本は、本門戒壇の大御本尊様と唯授一人の血脈にあります。

私たちは、大聖人様の御金言のままに本門戒壇の大御本尊様のもと、師弟相対の信心に立って御法主上人猊下に正直に信伏随従していくところに「正定聚に入る」こともでき、真の異体同心の団結がなされ、成仏の境界を開いていくことができるのであります。

水を離れて、魚が生きることができないように、御本尊様を離れては自らの尊い仏界の命を涌現することはできません。

信心の組織には、いろいろな人がおります。それぞれが互いに認め合い、助け合い、支え合い、広布のお役に立てるよう異体同心の団結を築いていきましょう。

四に「一切衆生を救う心を発す」とは、慈悲の心を発し、世のため、人のために、世の中全体をよくしようとの志を持つことであります。

すなわち、一切衆生救済の誓願に立ち命あるものすべてを救っていこうとの心を発すことであります。

四弘(しぐ)誓願という、衆生(しゅじょう)無辺(むへん)誓願()煩悩(ぼんのう)無数(むしゅ)誓願(だん)法門(ほうもん)無尽(むじん)誓願知、仏道無上誓願(じょう)の四つは、仏道修行に励むあらゆる菩薩が、必ず立てる誓いであります。

その初めが、化他(けた)の行である「衆生無辺誓願度」であります。これは、あらゆる人々を分け隔てなく救っていくという尊い誓いであります。

大聖人様は『御義口伝』に、

「所詮四弘誓願の中には衆生無辺誓願度肝要なり。今日蓮等の類は南無妙法蓮華経を以て衆生を度する、是より外には所詮無きなり」(同 一八六二頁)

と仰せです。

故に、衆生救済の方途は折伏以外にはないのであります。すなわち、謗法を破折し、正法正義を広く宣揚するところに私たちの使命があるのです。

仏様のお使いとして、自覚と誇りを持って折伏を行じさせていただく、そこには困難や障害もあるでしょう。しかし、謗法を破折する折伏の功徳は実に大きなものがあります。

御法主上人猊下は、

「折伏こそ、仏国土実現、一切衆生救済の最善の方途であり、最高の慈悲行であります。また己れ自身の一生成仏にとっても、不可欠にして最上の仏道修行であります」(大白法 八七三号)

と、私たちの進むべき道を御指南であります。

以上のように、四法成就の信心とは、言い換えるならば、一に御本尊様に対する絶対の確信、二に自行化他の修行、三に異体同心の確立、四に広布への情熱、この四つの心を常に持っていくことであります。これにより、正しい信心の道を歩むことができ、功徳と歓喜に満ちた成仏の境界を成就することができるのであります。

使命を自覚しよう

大聖人様は『諸法実相抄』に、

「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんぱ唱へがたき題目なり。日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつた()ふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや」(御書 六六六頁)

と仰せのように、自分に厳しく、自分を磨き、そして世のため人のため、広布のために尽くしていく、これは現在に生きる私たちの勤めであり、これこそが地涌の眷属としての使命であります。

口先ばかりでなく、実践の伴った地涌の菩薩の眷属となれるよう、使命と自覚を持つことが大切なのであります。

中国の故事に「(かく)氏の墟」という言葉があります。

これは、(せい)の国の桓公(かんこう)が、郭の廃墟に入ったときの話です。

春秋時代に郭という国があり、たいへん栄えていましたが、次第に衰え滅びてしまいます。

何故滅びたのか。王は不思議に思い、その理由を調べるために郭氏の国に入って老人に会い、国が滅んだ原因を尋ねました。

「郭はどういうわけで滅んだのか?」

「郭の君は、善を善とし、悪を悪としたからであります」

「あなたの言葉のようであるなら、それは賢者である。どうして滅びることになるのじゃ?」

「そうではございません。郭の君は、善を善としましたが、その善を(もち)いることができず、悪を悪としましたが、その悪を除き去ることができなかったのです。それが滅亡した理由でございます」

と答えました。王は、なるほどと納得しました。

善いと判っていても実行しない。悪いことと承知していてもこれを止めようとしない。これでは国も人も、だめになります。それで、中国では国が衰え(すた)れ滅ぶことを、この故事に習って「郭氏の墟」と言うのだそうです。

信心もこれと同じで、善根を積むことが大切だと判っていても勤行しない、唱題しない、挙げ句は折伏をしない。これでは功徳を積むことはできません。これでは罪障は絶対に消滅いたしません。

なぜこのような状態に(おちい)るかと言えば、日常生活に流されて信心の心が濁っているからです。信心が濁ると、折伏することができなくなります。

大聖人様は『立正安国論』に、

「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ」(同 二五〇頁)

と仰せであります。

皆さんのすべてが妙法に活かされている、否、妙法によって活かすべき命なのであります。ですから必ず、一人ひとりにすばらしい力と使命があるはずです。

破邪顕正の折伏に全力で精進

お互いが因となり縁となって、世の中が形成されているのでありますから、私たちの心、行動如何(いかん)によって、浄土(じょうど)ともなり穢土(えど)ともなるのであります。

私たち一人ひとりが、妙法に生かされている尊い命であることを自覚し、大聖人様のお与えくださった御本尊様を絶対と信じ、破邪顕正の折伏に努めていくことが、大聖人様の教えであり、立正安国の精神なのであります。

したがって、御法主上人猊下は、

「我々、曰蓮正宗は折伏の集団であります。つまり、世の中を良くし、人々を幸せにしていく集団なのです」(大白法九〇五号)

と仰せですが、一人ひとりが『日興遺誠置文』の、

「未だ広宣流布せざる間は身命を捨てゝ随力弘通を致すべき事」(御書 一八八四頁)

との御遺誡を心肝に染め、広布達成へ向けて全力を傾注していくことこそ、今、最も肝要であろうと存じます。

また、御法主上人猊下は、

「広布達成は、御本仏宗祖日蓮大聖人の御遺命であります。また、私どもに課せられた最も大事な使命であります」(大白法九〇六号)

と御指南であります。私たち日蓮正宗の僧俗は、師弟相対の上から、この御指南を命で受け止め、行動に移していかなくてはなりません。

今、末法の世に幸いにして、過去世における()き因縁によって、人間として生

を受け、この上ない尊い大聖人様の三大秘法の御本尊様を受持することができたのであります。

「地涌の菩薩の出現に非ずんぱ唱へがたさ題目なり」(御書 六六六頁)

との御文を深く噛みしめ、この功徳を喜び、活かさなくてはならないのであります。

どうぞ皆様には、この御霊宝虫払大法会に当たり、御本尊様に生かされている命の尊さを感ずると共に、自らの使命を自覚し、広宣流布のため、まずは平成三十三年・宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年、法華講員八十万人体勢構築に向け、決意も新たに一意専心、折伏行の実践に努めようではありませんか。

皆様のいよいよのご健勝とご活躍を心よりお祈り申し上げ、私の講演に代えさせていただきます。

ご清聴、まことにありがとうございました。

大白法 平成27年4月16日刊(第907号)より転載