私たちが今、宿縁深厚にして大聖人の仏法にあい、人生最大の目的である成仏の境界を得ることができるのは、ひとえに正法正義を堅く守り抜かれた第二祖・日興上人がおわしましたからであり、それゆえに本宗では「僧宝の随一」として崇めています。
興師会は、日蓮大聖人から仏法の正義を受け継がれ、後世まで正しく法灯を伝えてくださった日興上人に対し奉り、僧俗一同、心から御報恩申し上げるための厳修される法要です。
盂蘭盆と申し候事は、仏の御弟子(みでし)の中に、目連尊者と申して舎利弗にならびて智慧第一・神通第一と申して、須弥山に日月のならび、大王に左右の臣のごとくにをはせし人なり。此の人の父をば吉懺師士と申し、母をば青提女と申す。其母の慳貪の科によて餓鬼道に堕ちて候しを、目連尊者のすくい給ふより事をこりて候。其因縁は母は餓鬼道に堕ちてなげき候ひけれども、目連は凡夫なれば知ることなし。幼少にして外道の家に入り、四井陀・十八大経と申す外道の一切経をならいつくせども、いまだ其の母の生処をしらず。其の後十三のとし、舎利弗とともに釈迦仏にまいりて御弟子となり、見惑をだんじて初果の聖人となり、修惑をだんじて阿羅漢となりて、三明をそなへ六通をへ給へり。天眼をひらいて三千大千世界を明鏡のかげのごとく御らむありしかば、大地をみとをし三悪道を見る事、氷の下に候魚を朝日にむかいて我等がとおしみるがごとし。其中に餓鬼道と申すところに我が母あり。のむ事なし、食ことなし。皮はきんてうをむしれるがごとく、骨はまろき石をならべたるがごとし。頭はまりのごとく、頚はいとのごとし。腹は大海のごとし。口をはり手を合せて物をこへる形は、うへたるひるの人のかをかげるがごとし。先生(せんじょう)の子をみてなかんとするすがた、うへたるかたち、たとへをとるに及ばず。いかんがかなしかりけん。(盂蘭盆御書 1993頁)
盂蘭盆と申し候事は、仏の御弟子(みでし)の中に、目連尊者と申して舎利弗にならびて智慧第一・神通第一と申して、須弥山に日月のならび、大王に左右の臣のごとくにをはせし人なり。此の人の父をば吉懺師士と申し、母をば青提女と申す。其母の慳貪の科によて餓鬼道に堕ちて候しを、目連尊者のすくい給ふより事をこりて候。其因縁は母は餓鬼道に堕ちてなげき候ひけれども、目連は凡夫なれば知ることなし。幼少にして外道の家に入り、四井陀・十八大経と申す外道の一切経をならいつくせども、いまだ其の母の生処をしらず。其の後十三のとし、舎利弗とともに釈迦仏にまいりて御弟子となり、見惑をだんじて初果の聖人となり、修惑をだんじて阿羅漢となりて、三明をそなへ六通をへ給へり。天眼をひらいて三千大千世界を明鏡のかげのごとく御らむありしかば、大地をみとをし三悪道を見る事、氷の下に候魚を朝日にむかいて我等がとおしみるがごとし。其中に餓鬼道と申すところに我が母あり。のむ事なし、食ことなし。皮はきんてうをむしれるがごとく、骨はまろき石をならべたるがごとし。頭はまりのごとく、頚はいとのごとし。腹は大海のごとし。口をはり手を合せて物をこへる形は、うへたるひるの人のかをかげるがごとし。先生(せんじょう)の子をみてなかんとするすがた、うへたるかたち、たとへをとるに及ばず。いかんがかなしかりけん。(盂蘭盆御書 1993頁)