御講とは
御講とは、御報恩御講を省略した言い方です。
総本山では古来、日蓮大聖人様・日興上人様・日目上人様の命日である七日・十三日・十五日に御報恩御講を奉修します。
一方、各末寺においては、毎月第二日曜日に御報恩御講を行いますが、寺院によっては毎月第二日曜日のほかに、十三日などに行うところもあります。
また、願い出によって、信徒宅を会場とする宅御講を行う場合もあります。
末寺の御講では、まず御本尊様・大聖人様・日興上人様・日目上人様と日蓮正宗の代々の御法主上人(御歴代上人)等にそれぞれ御霊供膳をお供えし、読経・唱題申し上げます。その後、御僧侶の法話を聴聞します。
大聖人様は『四恩抄』に、
「仏法を習ふ身には、必ず四恩を報ずべきに候か」(御書 267頁)
と仰せられ、仏法を信仰する者は、まず第一に知恩報恩を心がけなければならないと申されています。
ですから私たちは、末法の三宝である大聖人様・御本尊様・日興上人様をはじめとする御歴代の御法主上人猊下の大きな慈悲によって功徳を積むことができる御恩を知り、その大恩を報じるための法要が御講なのです。
御講に参詣しよう
私たちは、仕事や家事、その他様々な雑事に追われ、忙しい日々を送っています。
そのために「御講へ行く時間がない」などの理由をつけて、御講に参詣しない人もいるようです。このような理由をつけて参詣しない人は、やがて何か寺院参詣しない理由はないかと考えるようになってしまいます。
そのような時は、これこそ魔の用きであると、自身を振り返って反省し、時間をやりくりして、御講に参詣するようにしましょう。
御僧侶の法話を聴聞しよう
御講では、読経・唱題の後に御僧侶の法話が行われます。
私たちは、迷いの多い凡夫です。たとえ尊い信仰の体験があったとしても、自分の頭で仏法を判断するようになり、次第に正しい仏法の道から外れていってしまいます。ですから、絶えず御僧侶の法話を聴聞して、信心の姿勢を正していかなければなりません。
大聖人様が、
「何としても此の経の心をしれる僧に近づき、弥法の道理を聴聞して信心の歩みを運ぶべし」(同 1457頁)
と仰せられているように、御僧侶の法話を道しるべとして、信心の歩みを一歩いっぽ運ぶことがとても大切なのです。
御講参詣の功徳
私たちが、御本尊様への御報恩の行事である御講に参詣し、御僧侶の法話を拝聴することには大きな功徳があります。
お釈迦様は、老齢の御信徒が遠いところから会いに来たときには、
「そなたの歩いて踏んできた土を粉砕して塵とし、その一粒につき一劫という長い間の罪が消滅するであろう。また、その塵の数だけ生まれ変わって幾度も仏に会い奉るであろう」(趣意)
と、実に無量無辺の功徳があることを明らかにされています。
さらに法華経には、八十億劫もの長い間、無量の財宝を仏に供養する功徳よりも、法華経を説く御僧侶を供養し、ほんのわずかでも法華経の法門を聴聞する功徳のほうが実に大きいことが説かれています。
そして、ふだんの生活の中で様々な悩みを抱えていても、御講参詣によって、不思議と悩みを乗り越えることができた等の、全国の法華講員の尊い体験が、「大白法」にたびたび掲載されています。
このように、私たちが毎月の御講に参詣する功徳は、計り知れないことを確信しましょう。
大白法 平成18年8月1日刊(第698号)より転載
盂蘭盆と申し候事は、仏の御弟子(みでし)の中に、目連尊者と申して舎利弗にならびて智慧第一・神通第一と申して、須弥山に日月のならび、大王に左右の臣のごとくにをはせし人なり。此の人の父をば吉懺師士と申し、母をば青提女と申す。其母の慳貪の科によて餓鬼道に堕ちて候しを、目連尊者のすくい給ふより事をこりて候。其因縁は母は餓鬼道に堕ちてなげき候ひけれども、目連は凡夫なれば知ることなし。幼少にして外道の家に入り、四井陀・十八大経と申す外道の一切経をならいつくせども、いまだ其の母の生処をしらず。其の後十三のとし、舎利弗とともに釈迦仏にまいりて御弟子となり、見惑をだんじて初果の聖人となり、修惑をだんじて阿羅漢となりて、三明をそなへ六通をへ給へり。天眼をひらいて三千大千世界を明鏡のかげのごとく御らむありしかば、大地をみとをし三悪道を見る事、氷の下に候魚を朝日にむかいて我等がとおしみるがごとし。其中に餓鬼道と申すところに我が母あり。のむ事なし、食ことなし。皮はきんてうをむしれるがごとく、骨はまろき石をならべたるがごとし。頭はまりのごとく、頚はいとのごとし。腹は大海のごとし。口をはり手を合せて物をこへる形は、うへたるひるの人のかをかげるがごとし。先生(せんじょう)の子をみてなかんとするすがた、うへたるかたち、たとへをとるに及ばず。いかんがかなしかりけん。(盂蘭盆御書 1993頁)
盂蘭盆と申し候事は、仏の御弟子(みでし)の中に、目連尊者と申して舎利弗にならびて智慧第一・神通第一と申して、須弥山に日月のならび、大王に左右の臣のごとくにをはせし人なり。此の人の父をば吉懺師士と申し、母をば青提女と申す。其母の慳貪の科によて餓鬼道に堕ちて候しを、目連尊者のすくい給ふより事をこりて候。其因縁は母は餓鬼道に堕ちてなげき候ひけれども、目連は凡夫なれば知ることなし。幼少にして外道の家に入り、四井陀・十八大経と申す外道の一切経をならいつくせども、いまだ其の母の生処をしらず。其の後十三のとし、舎利弗とともに釈迦仏にまいりて御弟子となり、見惑をだんじて初果の聖人となり、修惑をだんじて阿羅漢となりて、三明をそなへ六通をへ給へり。天眼をひらいて三千大千世界を明鏡のかげのごとく御らむありしかば、大地をみとをし三悪道を見る事、氷の下に候魚を朝日にむかいて我等がとおしみるがごとし。其中に餓鬼道と申すところに我が母あり。のむ事なし、食ことなし。皮はきんてうをむしれるがごとく、骨はまろき石をならべたるがごとし。頭はまりのごとく、頚はいとのごとし。腹は大海のごとし。口をはり手を合せて物をこへる形は、うへたるひるの人のかをかげるがごとし。先生(せんじょう)の子をみてなかんとするすがた、うへたるかたち、たとへをとるに及ばず。いかんがかなしかりけん。(盂蘭盆御書 1993頁)
盂蘭盆と申し候事は、仏の御弟子(みでし)の中に、目連尊者と申して舎利弗にならびて智慧第一・神通第一と申して、須弥山に日月のならび、大王に左右の臣のごとくにをはせし人なり。此の人の父をば吉懺師士と申し、母をば青提女と申す。其母の慳貪の科によて餓鬼道に堕ちて候しを、目連尊者のすくい給ふより事をこりて候。其因縁は母は餓鬼道に堕ちてなげき候ひけれども、目連は凡夫なれば知ることなし。幼少にして外道の家に入り、四井陀・十八大経と申す外道の一切経をならいつくせども、いまだ其の母の生処をしらず。其の後十三のとし、舎利弗とともに釈迦仏にまいりて御弟子となり、見惑をだんじて初果の聖人となり、修惑をだんじて阿羅漢となりて、三明をそなへ六通をへ給へり。天眼をひらいて三千大千世界を明鏡のかげのごとく御らむありしかば、大地をみとをし三悪道を見る事、氷の下に候魚を朝日にむかいて我等がとおしみるがごとし。其中に餓鬼道と申すところに我が母あり。のむ事なし、食ことなし。皮はきんてうをむしれるがごとく、骨はまろき石をならべたるがごとし。頭はまりのごとく、頚はいとのごとし。腹は大海のごとし。口をはり手を合せて物をこへる形は、うへたるひるの人のかをかげるがごとし。先生(せんじょう)の子をみてなかんとするすがた、うへたるかたち、たとへをとるに及ばず。いかんがかなしかりけん。(盂蘭盆御書 1993頁)
御講とは
御講とは、御報恩御講を省略した言い方です。
総本山では古来、日蓮大聖人様・日興上人様・日目上人様の命日である七日・十三日・十五日に御報恩御講を奉修します。
一方、各末寺においては、毎月第二日曜日に御報恩御講を行いますが、寺院によっては毎月第二日曜日のほかに、十三日などに行うところもあります。
また、願い出によって、信徒宅を会場とする宅御講を行う場合もあります。
末寺の御講では、まず御本尊様・大聖人様・日興上人様・日目上人様と日蓮正宗の代々の御法主上人(御歴代上人)等にそれぞれ御霊供膳をお供えし、読経・唱題申し上げます。その後、御僧侶の法話を聴聞します。
大聖人様は『四恩抄』に、
「仏法を習ふ身には、必ず四恩を報ずべきに候か」(御書 267頁)
と仰せられ、仏法を信仰する者は、まず第一に知恩報恩を心がけなければならないと申されています。
ですから私たちは、末法の三宝である大聖人様・御本尊様・日興上人様をはじめとする御歴代の御法主上人猊下の大きな慈悲によって功徳を積むことができる御恩を知り、その大恩を報じるための法要が御講なのです。
御講に参詣しよう
私たちは、仕事や家事、その他様々な雑事に追われ、忙しい日々を送っています。
そのために「御講へ行く時間がない」などの理由をつけて、御講に参詣しない人もいるようです。このような理由をつけて参詣しない人は、やがて何か寺院参詣しない理由はないかと考えるようになってしまいます。
そのような時は、これこそ魔の用きであると、自身を振り返って反省し、時間をやりくりして、御講に参詣するようにしましょう。
御僧侶の法話を聴聞しよう
御講では、読経・唱題の後に御僧侶の法話が行われます。
私たちは、迷いの多い凡夫です。たとえ尊い信仰の体験があったとしても、自分の頭で仏法を判断するようになり、次第に正しい仏法の道から外れていってしまいます。ですから、絶えず御僧侶の法話を聴聞して、信心の姿勢を正していかなければなりません。
大聖人様が、
「何としても此の経の心をしれる僧に近づき、弥法の道理を聴聞して信心の歩みを運ぶべし」(同 1457頁)
と仰せられているように、御僧侶の法話を道しるべとして、信心の歩みを一歩いっぽ運ぶことがとても大切なのです。
御講参詣の功徳
私たちが、御本尊様への御報恩の行事である御講に参詣し、御僧侶の法話を拝聴することには大きな功徳があります。
お釈迦様は、老齢の御信徒が遠いところから会いに来たときには、
「そなたの歩いて踏んできた土を粉砕して塵とし、その一粒につき一劫という長い間の罪が消滅するであろう。また、その塵の数だけ生まれ変わって幾度も仏に会い奉るであろう」(趣意)
と、実に無量無辺の功徳があることを明らかにされています。
さらに法華経には、八十億劫もの長い間、無量の財宝を仏に供養する功徳よりも、法華経を説く御僧侶を供養し、ほんのわずかでも法華経の法門を聴聞する功徳のほうが実に大きいことが説かれています。
そして、ふだんの生活の中で様々な悩みを抱えていても、御講参詣によって、不思議と悩みを乗り越えることができた等の、全国の法華講員の尊い体験が、「大白法」にたびたび掲載されています。
このように、私たちが毎月の御講に参詣する功徳は、計り知れないことを確信しましょう。
大白法 平成18年8月1日刊(第698号)より転載
御講とは
御講とは、御報恩御講を省略した言い方です。
総本山では古来、日蓮大聖人様・日興上人様・日目上人様の命日である七日・十三日・十五日に御報恩御講を奉修します。
一方、各末寺においては、毎月第二日曜日に御報恩御講を行いますが、寺院によっては毎月第二日曜日のほかに、十三日などに行うところもあります。
また、願い出によって、信徒宅を会場とする宅御講を行う場合もあります。
末寺の御講では、まず御本尊様・大聖人様・日興上人様・日目上人様と日蓮正宗の代々の御法主上人(御歴代上人)等にそれぞれ御霊供膳をお供えし、読経・唱題申し上げます。その後、御僧侶の法話を聴聞します。
大聖人様は『四恩抄』に、
「仏法を習ふ身には、必ず四恩を報ずべきに候か」(御書 267頁)
と仰せられ、仏法を信仰する者は、まず第一に知恩報恩を心がけなければならないと申されています。
ですから私たちは、末法の三宝である大聖人様・御本尊様・日興上人様をはじめとする御歴代の御法主上人猊下の大きな慈悲によって功徳を積むことができる御恩を知り、その大恩を報じるための法要が御講なのです。
御講に参詣しよう
私たちは、仕事や家事、その他様々な雑事に追われ、忙しい日々を送っています。
そのために「御講へ行く時間がない」などの理由をつけて、御講に参詣しない人もいるようです。このような理由をつけて参詣しない人は、やがて何か寺院参詣しない理由はないかと考えるようになってしまいます。
そのような時は、これこそ魔の用きであると、自身を振り返って反省し、時間をやりくりして、御講に参詣するようにしましょう。
御僧侶の法話を聴聞しよう
御講では、読経・唱題の後に御僧侶の法話が行われます。
私たちは、迷いの多い凡夫です。たとえ尊い信仰の体験があったとしても、自分の頭で仏法を判断するようになり、次第に正しい仏法の道から外れていってしまいます。ですから、絶えず御僧侶の法話を聴聞して、信心の姿勢を正していかなければなりません。
大聖人様が、
「何としても此の経の心をしれる僧に近づき、弥法の道理を聴聞して信心の歩みを運ぶべし」(同 1457頁)
と仰せられているように、御僧侶の法話を道しるべとして、信心の歩みを一歩いっぽ運ぶことがとても大切なのです。
御講参詣の功徳
私たちが、御本尊様への御報恩の行事である御講に参詣し、御僧侶の法話を拝聴することには大きな功徳があります。
お釈迦様は、老齢の御信徒が遠いところから会いに来たときには、
「そなたの歩いて踏んできた土を粉砕して塵とし、その一粒につき一劫という長い間の罪が消滅するであろう。また、その塵の数だけ生まれ変わって幾度も仏に会い奉るであろう」(趣意)
と、実に無量無辺の功徳があることを明らかにされています。
さらに法華経には、八十億劫もの長い間、無量の財宝を仏に供養する功徳よりも、法華経を説く御僧侶を供養し、ほんのわずかでも法華経の法門を聴聞する功徳のほうが実に大きいことが説かれています。
そして、ふだんの生活の中で様々な悩みを抱えていても、御講参詣によって、不思議と悩みを乗り越えることができた等の、全国の法華講員の尊い体験が、「大白法」にたびたび掲載されています。
このように、私たちが毎月の御講に参詣する功徳は、計り知れないことを確信しましょう。
大白法 平成18年8月1日刊(第698号)より転載
盂蘭盆と申し候事は、仏の御弟子(みでし)の中に、目連尊者と申して舎利弗にならびて智慧第一・神通第一と申して、須弥山に日月のならび、大王に左右の臣のごとくにをはせし人なり。此の人の父をば吉懺師士と申し、母をば青提女と申す。其母の慳貪の科によて餓鬼道に堕ちて候しを、目連尊者のすくい給ふより事をこりて候。其因縁は母は餓鬼道に堕ちてなげき候ひけれども、目連は凡夫なれば知ることなし。幼少にして外道の家に入り、四井陀・十八大経と申す外道の一切経をならいつくせども、いまだ其の母の生処をしらず。其の後十三のとし、舎利弗とともに釈迦仏にまいりて御弟子となり、見惑をだんじて初果の聖人となり、修惑をだんじて阿羅漢となりて、三明をそなへ六通をへ給へり。天眼をひらいて三千大千世界を明鏡のかげのごとく御らむありしかば、大地をみとをし三悪道を見る事、氷の下に候魚を朝日にむかいて我等がとおしみるがごとし。其中に餓鬼道と申すところに我が母あり。のむ事なし、食ことなし。皮はきんてうをむしれるがごとく、骨はまろき石をならべたるがごとし。頭はまりのごとく、頚はいとのごとし。腹は大海のごとし。口をはり手を合せて物をこへる形は、うへたるひるの人のかをかげるがごとし。先生(せんじょう)の子をみてなかんとするすがた、うへたるかたち、たとへをとるに及ばず。いかんがかなしかりけん。(盂蘭盆御書 1993頁)