教学部長 水島公正御尊師
皆様、こんにちは。
私はこの席をお借りして、「折伏の意義」についてお話を申し上げたいと思います。
「折伏の意義」は皆様、既に熟知されていると思いますが、今日は支部のリーダーである皆さんが正確な認識を持って講中の指揮を執っていかれるよう、折伏の意義を教学的視点から、四点にまとめてお話いたします。
使命を果たすために
「折伏を行ずる意義」の第一は、
「大願とは法華弘通なり」(御書 一七四九頁)
と仰せられた末法の御本仏日蓮大聖人の弟子檀那としてその教えに随順し、地涌の菩薩の流れを汲む者としての使命を果たすことであります。
仏が世に現われるのは、教えを説いて衆生を済度するためです。
釈尊は四十二年間の説法の後、出世の本懐として法華経を説きました。法華経には本迹二門がありますが、釈尊は久遠実成を開顕した本門の法を地涌の菩薩に付嘱し、末法の弘通を託されました。
経文には地涌の菩薩について、
「是の諸の菩薩等 志固くして怯弱無し 無量劫より来 而も菩薩の道を行ぜり 難問答に巧みにして 其の心畏るる所無く 忍辱の心決定し(中略)善能く分別して説けり」(法華経 四二六頁)
とあります。すなわち地涌の菩薩は志固く、長く菩薩道を行じ、問答に巧みであり、苦難を耐え忍んでよく妙法を説く、と言うのです。
上行菩薩の再誕に在す日蓮大聖人は、
「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし」(御書 一二一九頁)
と仰せられ、『聖愚問答抄』には、
「邪正肩を並べ大小先を争はん時は、万事を閣いて謗法を責むべし、是折伏の修行なり」(同 四〇二頁)
と教示されています。
ここで折伏の語義について申しますと、「折伏」とは破折屈伏の義で、違法を破折して正義のもとに帰伏せしめることであります。
天台大師は『法華玄義』に、
「法華は折伏して権門の理を破す。(中略)涅槃は摂受にして更に権門を許す」(法華玄義釈籖会本-下 五〇二頁)
と説いて、法華経の教理それ自体が方便を排した随自意の折伏門であり、涅槃経等の権門は随他意を旨とする摂受門なることを明かされています。
人生の幸せを築くために
折伏の意義の第二は、言うまでもなく、迷える人・苦しむ人に対して、邪義悪法を止め、妙法を信受させることです。
人間の苦しみは、煩悩が因となって身口意にわたる悪業を犯し、その結果苦しむのでありますから、安寧福徳の人生は、煩悩を浄化することから始めなければなりません。
煩悩の実体は貪(むさぼり)瞋(いかり)癡(おろか)の三毒に慢(おごり)・疑(うたがい)を加えた五鈍使です。これは人間に本来具わる惑いです。この煩悩を菩提(さとり)に転換し、障害なき人生をもたらす教えは法華経文底下種の南無妙法蓮華経以外にはありません。
『当体義抄』には、
「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり」(御書 六九四頁)
と、方便を捨てて、妙法を信受する功徳を説示されております。
真の安国実現のために
折伏の意義の第三は、社会の安寧、世界の平和をもたらすためです。
日蓮大聖人の御化導は『立正安国論』に始まり『立正安国論』に終わると言われますが、国家諌暁の書『立正安国論』は、日蓮大聖人が身命を賭して、一国を折伏された書でありました。
宗祖大聖人が自ら垂範されたごとく、真の安国をもたらす要諦は、邪義謗法を止めて妙法を流布することにあります。
大聖人は、
「世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる」(同 二三四頁)
と、社会の災難と不幸の原因が邪義謗法にあることを明かされ、それ故に、
「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀ともに無間地獄は疑ひなかるべし」(御書 一〇四〇頁)
と厳しく誡められているのです。
御法主日如上人猊下は、
「創価学会をはじめ、あらゆる邪義邪宗は、私達が破折しなければ絶対に滅びないのです」(大白法 八三二号)
と御指南されております。
毒を飲んで苦しんでいる人を助けるには、まず毒を飲むことを止めさせなければなりません。目の前で幼い子供が車道に出たら、誰でもとっさに連れ戻そうとするでしょう。これが謗法破折の精神です。
「折伏は慈悲行である」と言われる所以であります。
日蓮大聖人が、
「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり」(御書 二五〇頁)
と教示されるように、私たちの折伏は安穏な仏国土の実現をめざすものであります。
自らの一生成仏のために
折伏の意義の第四は、私たち自身の信仰を錬磨し、一生成仏を遂げるためです。
『開目抄』には、
「日本国に此をしれる者、但日蓮一人なり。これを一言も申し出だすならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来たるべし。いわずば慈悲なきににたり(中略)いうならば三障四魔必ず競ひ起こるべしとしりぬ」(同 五三八頁)
と仰せであります。我々が破邪顕正の折伏を行ずることは、三障四魔を呼び起こすことです。
三障とは、自身の悪心・煩悩が信心を妨げる煩悩障、身口意による悪業が信心を妨げる業障、悪業の報いによる報障を言い、四魔とは悪心・煩悩から来る煩悩魔、病気など身体から来る陰魔、行者の死によって修行が妨げられる死魔、自在に変化する第六天の魔王の妨害による天子魔の四つを言います。
また、正法弘通の途上には三類の強敵も襲いかかってくるでしょう。
これらの障魔や強敵に対し、恐れることなく敢然と闘い、これらを打ち破っていくところに、私たちの信心の錬磨があり、成仏の道があるのです。
障魔を打ち破る根源の力、それは唱題以外にありません。
『御義口伝』には、
「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」(同 一七六四頁)
とあり、『開目抄』には、
「今、日蓮、強盛に国土の謗法を責むれば、此の大難の来たるは過去の重罪の今生の護法に招き出せるなるべし」(同 五七三頁)
と仰せです。
また『佐渡御勘気抄』には、
「仏教をきはめて仏になり、恩ある人をもたすけんと思ふ。仏になる道は、必ず身命をすつるほどの事ありてこそ、仏にはなり侯」(同 四八二頁)
と仰せです。
すなわち、我らの成仏は信の一字にあり、その信は折伏を行じ、命にも及ぶ苦難によって鍛錬され、初めて成仏が叶うとの御教示であります。
以上、折伏の意義について、四点を挙げて説明いたしましたが、この四つの意義は分離しているのではなく、私たちの一つの折伏行に自ずと具わっているのであります。
喜びと誇りを持って折伏を実践しよう
ところで、皆さんの中には「折伏をする理由は判ったが、できれば、辛い折伏はしないで済ませたい」とお考えの人がいるかも知れません。
法華経『涌出品』には、地涌の菩薩が涌現する状況を次のように説いています。
「爾の時に他方の国土の、諸の来れる菩薩(中略)仏に白して言さく、
世尊、若し我等、仏の滅後に於て、(中略)是の経典を護持し、(中略)広く之を説きたてまつるべし。
爾の時に仏、(中略)告げたまわく、
止みね、善男子。汝等が此の経を護持せんことを須いじ。所以は何ん。我が娑婆世界に、自ら六万恒河沙等の菩薩摩訶薩有り。(中略)是の諸人等、能く我が滅後に於て、(中略)広く此の経を説かん」(法華経 四〇七頁)
とあります。すなわち薬王などの大菩薩が仏の滅後の弘教をさせて欲しいと願い出たところ、釈尊はこれを制止して、地涌の菩薩のみに滅後末法の法華経弘通を許されたのです。
正しく日蓮大聖人の弟子檀那たる我々のみに、折伏弘通ができる特権が与えられています。
人々を救い、国土社会を安寧ならしめる最高の仏法を説く喜びは、私たちしか味わえません。折伏された人が素直に入信した時の喜びは何ものにも代えられません。反対に逆縁の人あっても、私たちの下種によって、毒鼓の縁を結び、将来必ず妙法に帰依することを思えば、これもまた大きな喜びではありませんか。
御法主上人猊下は、
「我々から折伏を取ってしまったら何も残りません。大聖人様の御遺命は、一天四海皆帰妙法広宣流布なのであります」(大白法 九〇五頁)
と御指南くださいました。
本日お集まりの講頭・副講頭の皆様にはこの御指南を心肝に染め、平成三十三年の御命題達成に向けて精進すると共に、支部講員の皆様には、「折伏は楽しい修行なのだ」「折伏以上の喜びはないのだ」と、確信をもって教えてくださるよう、お願いいたします。
皆様のいよいよのご活躍をお祈り申し上げ、私の話といたします。
大白法 平成27年5月16日刊(第909号)より転載