本日は、九月度の広布唱題会に当たりまして、皆様には新型コロナウイルス感染症の蔓延によって御不便のところ、信心強盛に参加され、まことに御苦労さまでございます。
 さて『曽谷殿御返事』を拝しますと、
「謗法を責めずして成仏を願はゞ、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなしはかなし」(御書 一〇四〇㌻)
と仰せであります。
 すなわち、謗法こそ堕地獄の根源、不幸の元凶であります。したがって、その謗法を放置したまま折伏もしなければ、どれほど成仏を願ったとしても、火の中に水を求め、水の中に火を求めるようなものであると仰せられているのであります。
 まことに厳しい御指南でありますが、私どもはこの御指南を拝し、真剣に折伏に取り組んでいかなければならないことを、しっかり肝に銘じておかなければなりません。
 自分一人だけの幸せを求める信心、すなわち利己的な信心は、大聖人様がお示しあそばされた自行化他にわたる信心にはほど遠く、これではかえって成仏を妨げることになるのであります。したがって私どもの信心にとって、諦法の害毒によって不幸に喘ぐ多くの人々を救う折伏がいかに大事であるかを、一人ひとりがしっかりと知らなければなりません。
『法華初心成仏抄』には、
「当世の人何となくとも法華経に背く失に依りて、地獄に堕ちん事疑ひなき故に、とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり。何にとしても仏の種は法華経より外になきなり」(同 一三一六㌻)
と仰せであります。
 「毒鼓の縁」とは、皆様には既に御存じの通り、太鼓に毒薬を塗り、これを大衆のなかで打つと、その音は聞こうとしない者の耳にも届き、聞いた者は皆、死ぬと言われております。これは、法を聞こうとせず反対した者でも、やがて法を耳にしたことが縁となって成仏得道できることを、毒鼓を打つことに警えているのであります。
 すなわち、一切衆生には皆、仏性が具わっており、正法を聞いたことが縁となって成仏できるのであります。したがって、たとえ初めは耳を塞ぎ、かたくなに反対した人でも、慈悲の心をもって根気よく折伏を続けていけば、やがて聞く耳を持ち、必ず救済することができるのでありますから、折伏は諦めず、粘り強く続けていくことが大事なのであります。
 さらに折伏に当たって大事なことは、大御本尊様への絶対の確信と、何ものにも恐れない勇気と、相手を思う慈悲の心であります。
 しこうして、この確信と勇気と慈悲の心は、大御本尊様への絶対信から生まれてくるのでありますから、折伏に当たっては、まずしっかりと唱題に励み、その功徳と歓喜をもって折伏に打って出ることが肝要であります。
『法華初心成仏抄』には、
「凡そ妙法蓮華経とは、我等衆生の仏性と梵王・帝釈等の仏性と舎利弗・目連等の仏性と文殊・弥勒等の仏性と、三世諸仏の解りの妙法と、一体不二なる理を妙法蓮華経と名づけたるなり。故に一度妙法蓮華経と唱ふれば、一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕はし奉る功徳無量無辺なり」(同 一三二〇㌻)
と仰せであります。
 すなわち、妙法蓮華経とは、人・天・二乗・菩薩等のあらゆる境界の衆生が具えている仏性と、三世諸仏の悟りの仏性とが、一体不二なる理に名づけたものでありまして、故にひとたび妙法蓮華経と唱えれば、心中の仏性が呼び顕され、成仏することができると仰せられているのであります。
 されば、私どもはこの御金言を拝し、今こそ一切衆生救済の秘法たる妙法を一人でも多くの人に、また一日も早く、一天四海・皆帰妙法を目指し、講中一結・異体同心して身軽法重・死身弘法の御聖訓のままに決然として折伏に励まれますよう心から願い、本日の挨拶といたします。
(大白法 令和4年9月16日 第1085号 転載)